中央アルプスのいちばん長い日 – 空木岳

檜尾岳の頂に立ち、南へと続く稜線を臨む。ようやくここに来たか。

宝剣岳から檜尾岳まで歩いて、この景色を眺めたのはもう十年も前。その時は檜尾岳までで下山したが、いつかあの先を歩きたいと思い続けて瞬く間に月日は流れた。

さて、行くか。

意気揚々と踏み出したものの、これけっこうキツいんじゃない?

大きく下って大きく登り、さらに大きく下ってさらに大きく登るのくり返し。檜尾までの平坦気味な稜線に比べて、アップダウンが大きく回数も多い。

十年前にこの稜線を眺めた時にはサラッと行けそうだなと思ったのだが、ぜんぜんサラッとはいかない。むしろヨレヨレだ。

だが景色は抜群だ。こんな最高の一日に歩ける幸せを噛みしめる。アルプスの稜線を歩くなら天気の良い日に限る。これが荒天だと、天国から地獄だ。

ひと山越えるごとに空木岳が大きくなっていく。景色は美しいのだが、あれに登るのかと思うと気持ちが萎えてくる。

なんだか進みが遅い。予定よりだいぶ遅れている。熊沢岳への登りもたいがいだったが、そこから再び大きく下って、東川岳への登り返しだ。その先には空木岳が控えている。

今夜は空木平の避難小屋に泊まる予定だ。早く着きそうだから、どこか寄り道しようかななんて考えていたがとんでもない。このペースだと、日没までに到着できるかどうかってところだろう。

東川岳への登りはもうほんとたいへんで、どれだけ登っても登りが続き、心が折れそうだった。

登頂してホッとしたのも束の間、山頂からは木曽殿越への急峻な下り坂だ。

ペースが遅くここまで何人もの登山者に抜かされた。同じペースだったのは30人ほどの団体だけ。木曽殿越に到着したのは団体さんと同時だった。

団体さんは木曽殿山荘に宿泊なので、今日はここでおしまいだ。私はまだこの後、空木岳に登らなければならない。よっぽどここで終わりにしたかったが、木曽殿山荘は予約なしでは絶対に受け入れてくれない山小屋としてつとに有名である。まあもっとも泊めてくれると言われても泊まる気はないのだが。

目の前には空木岳への激しい登り。そしてあろうことか木曽殿超の標高は今日一日で最も低い。出発地点の千畳敷より低いし、到着予定の空木平よりも低いのだ。最低地点から最高地点への登りになる。やれやれ。

空木岳への登りを前にしてしばし悩む。ここで給水するかどうか。もともとここで給水する予定だったが、もっと時間に余裕があるはずだった。

水場は稜線から10分ほど下ったところにある。往復に給水時間を加えると30分近くのロスになる。ここに来ての30分は痛い。とはいえこのまま行けば明日の下山まで水はもたないだろう。この先に水場はない。

考えてる時間はないな。団体さんは受付をすませたら水を汲みに行くだろう。もたもたしてると30人待ちになってしまう。

水場へ下り、プラティパスを満たしてもどる途中、次々とやってくる団体さんとすれ違うことになった。早めに決断して助かった。

さて、空木への登りだ。登らなければ進まない。行くしかない。

登っても登っても登っても登りだ。もううんざりだ。わかってはいたけどうんざりだ。

やっとのことで急登を終え、傾斜が緩やかになった。そろそろだなとホッとしたものの、歩いても歩いても山頂に着かない。おかしい。それに加えて、次から次へと岩がちな小ピークを越えなければならない。

ここまで危険な箇所は無かったが、この最後の岩稜地帯だけは失敗したら大惨事ではすまない。とはいっても普通に歩けばなんということもない簡単な岩なのだか、疲れ切った最後にこれは厄介だし気が滅入る。尽きかけている集中力を絞り出さなければならない。

ようやく最後の岩を超えたと思ったらまだ先があった。これを登れば終わりだなと踏ん張って登ったのにまだ先があった。偽ピークになんど騙されたことだろう。精神力を試され続ける。

ようやくにして山頂が見えてきた。あれだ、あれに間違いない。もう、あれにしてくれよ。まだ距離があるが、あそこまで歩けばこの長い長い縦走も終わる。

18時ちょうど、空木岳登頂。なんとか日没前に到着することができた。

あとは空木平まで下るだけ。30分で下れば、暗くなる前に到着できる。

下り始めてすぐに30分では無理だと悟った。道が悪くて歩きにくく、重荷を背負っていると安定しない。ゆっくりとしか下れない。30分経っても半分ほどしか下れていない。日はとっくに沈み、やがて辺りは闇に包まれた。

ヘッドライトを点灯させて闇の中を下っていく。樹林帯に入り、暗くて視界が悪い。次第に道は心細くなり、左右に茂る小枝を振り払いながら進んでいく。おかしいな、百名山の一般ルートで、こんな藪漕ぎみたいな道があるとは思えない。登山道を見失ったか…。

避難小屋の近くまで来てるはずだ。方向に間違いはない。正規のルートは現在地より右手だろう。理由は、左側はずっと木々が密生していて歩けるようなところはなかったからだ。おそらく登山道が右へカーブしているところで直進して沢筋に入ってしまったのだろう。

こんな時に限って地形図を用意してないので正確な距離はわからないが、それほど遠くはないはずだ。このまま進んで避難小屋を目指そう。

進むほどに密になっていく枝を掻き分け掻き分け進んでいく。遭難ってのはこうやって起こるんだななんて呑気なことを考えながら進む。

このまま進んで大丈夫だろうかと不安になってきた頃、右側の雰囲気が変わった。開けた空間がありそうだ。1mほどの斜面をよじ登ると、広々とした草地に出た。

踏み跡もない草地を進んでいく。おそらくここが空木平で間違いないだろう。だが油断は禁物だ。期待半分にしておこう。なかなか避難小屋に着かないので不安になってくる。もし違っていたらどうするかも頭の隅で考えておかねばならない。

やがて、闇の中にぼんやりと建造物の姿が浮かんで見えた。

19時20分、空木平避難小屋に到着。

避難小屋では五人の登山者がすでに就寝していた。あとひとり分のスペースが空いていたので、なるべく音を立てないようにしてマットを敷き寝袋を出して横になった。もう夕飯を食べる気力もなかった。

翌朝、下山するだけなのでゆっくり起きた。五人のうち四人はすでに出発していた。ひとり残っていた男性とあいさつを交わして下山開始だ。

樹林帯の急な道をどんどん下っていく。下るにつれて、登りの登山者とすれ違うようになってきた。次から次へと空木岳へ向かう登山者が登ってくる。ひたすら急登の暑くて薄暗い樹林帯の登りだ。

昨日の稜線を目に浮かべる。ぜんぜん違う山だなと。空木岳は菅ノ台から登るのと稜線から登頂するのでは、まったく印象の違う山になるだろう。もちろんお勧めは稜線ルートだ。

11時30分、下山完了。

菅ノ台の駐車場まで、舗装路をあと少し。

2025年8月