今は昔 – 加世田麓

薩摩藩で「麓」といえば、それは山の麓ではなく麓集落のことだ。

武士が人口の4分の1を占めた薩摩藩では全員を鹿児島城下に住まわせることはできず、藩士は藩内の各所に分散して居住した。そんな集落のことを麓と言い、その数は120余りにも及んだという。入来、出水、知覧といった重要伝統的建造物群保存地区の他にも、垂水や志布志、串木野のように現代にまで麓の地名が残っているところは多い。

加世田麓も120余りの麓集落のひとつで、2019年に伝建地区に指定された。中世の山城を囲むようにして藩士が集住している。

関ヶ原の戦いで敗れた薩摩藩は領地に引き籠り、守りを固めて侵略に備えた。麓は鹿児島城下の外城としての機能を持ち、実際に防御に適した地に設けられている。薩摩は人をもって城となすと言われた所以である。

平和の世にも警戒を怠らず、武芸に励んで有事に備えた薩摩藩士は国内最強の武士団となっていく。そんな薩摩隼人が麓に暮らしていたのだ。

加世田麓の城跡は想像以上に小規模だった。城跡には昭和37年まで小学校があったが、その後は大きく削られ、標高を下げて公園になっている。

武家屋敷は城跡をぐるりと囲むように連なっていた。無人の屋敷もちらほらあり、外観だけなら自由に見学が可能だ。内部の見学を申し込むこともできるようだった。

廃仏毀釈で廃寺となった日新寺の阿吽像のうち、廃仏毀釈を逃れた阿の仁王像が庭にあると、とある武家屋敷の門前の案内板にあったので門内に入ってみた。

確かに門のすぐ内側に仁王像はあったのだが、ここは住人がいるようで母屋からは人の気配がする。庭先とはいえ自由に出入りさせるなんておおらかなものだ。

よくよく注意してみると、どの家の門も閉ざされてはいない。というかそもそも門扉がない。だからといって開放的なのかといえばそうとも言えず、門を入ると母屋を隠すように生垣がある。つまり母屋へは門を入ってから生垣を回り込まないと辿り着けないのだ。これは攻め込まれた時の防御を考慮した造りらしい。

南国的な開放感と戦さに備えた殺伐さが、南国の青空の下で不思議に同居していた。

2925年1月