その先の稜線 – 焼山編

緩やかに下り、なだらかな尾根を行く。

火打山から先は優しく歩きやすい稜線が待っていた。山頂にザックをデポして散策している人もちらほらいる。

この調子なら楽勝だ、そんな甘い考えは影火打を過ぎたところで完膚なきまでに打ち砕かれた。

目の前の景色に愕然とする。

焼山はだいぶ近くなった。あと少しで手が届きそうだ。しかし焼山との間は、深いキレットで隔てられている。かなりの急角度で下った後は、かなりの急角度で登ることになりそうだ。火打山からこのキレットはよく見えてなかった。ただ緩やかな稜線が続いているようだった。これが見えていたら、進んでくるのは躊躇したかもしれない。

風景は優しさを失い、岩がちな焼山の山肌と、噴き上がる水蒸気が荒々しさを増している。

これ下ったら、帰りは登らなきゃいけないんだよな…。その前に焼山への登りもある。あちらもなかなかに厳しそうだ。

引き返すならここだよなと思った。しかし引き返すつもりもなかった。はたして今日の体調であそこまで行ってこれるのかわからないが、とにかくも鞍部に向かって下り始めた。

下っても下っても終わりが見えてこない。道は荒れ気味になり、稜線は狭くて険しい。

暑い。喉が渇く。水はもういくらもない。補給はできないので、残りの水でなんとかするしかない。

高谷池にもどるまで、あと6時間かかるとして、残りの水は800mlくらいだ。1時間に1回、120mlの水分補給でいくことにした。高谷池までもどれば、あとはなんとかなる。

ようやく鞍部まで下ってきた。樹木が繁って風通しが悪く蒸し暑い。

ここでソロのおじさんとすれ違った。

「抜けるんですか?」

焼山の先には泊岩というビバークポイントがある。そこまで行き、翌日は金山から下山、もしくは雨飾山を目指すというのは魅力的なルートだ。しかし装備は高谷池にある。

高谷池でテント泊だと伝えると、おじさんは反応に困っていた。そりゃそうだ、いますぐ高谷池へもどっても日没ギリギリなのだから。おじさんも同じ行程なので、よくわかってるはずだ。

ソロおじさんは、やや無謀な行程に対して非難も心配もせず、ただこう言った。

「この先もまだかなり登りますよ…」

すれ違う登山者はだいたいみんな気休め的に「あと少しですよ」とか言うものだが、「かなり登る」とわざわざ伝えるというのは、つまりほんとにかなり登るということだろう。

焼山の登りはキツかった。おじさんが言ったように、ほんとにかなり登る。荒れ気味の急登で、まるで崖を登ってるかのようだ。

登っても登っても終わりが見えない。振り返るとまだたいして標高を稼いでいない。先は長そうだ。

ソロおじさんと出会ったところで引き返しておけばよかったかなという気持ちが芽生える。あそこで引き返せば、まともな時間に帰れたはずだ。いや、いまからでも遅くはない。しかし、ここまで来て撤退なんて選択肢は考えられない。もはや19時までに帰り着くのもあきらめている。何時になろうが構うものか。

崖のような急登を登り続けていくと、傾斜が少しだけ緩やかな草つきの斜面になった。あと少しだなと思ったものの、ここからもまだ長かった。

体が重く、歩みは遅い。歩いても歩いても風景が変わらない。

ようやく山頂らしき場所が見えたときは、やっとかよ…とちょっとだけホッとした。

岩がむき出しの山頂は風が強く寒かった。そういえば台風が近づいてるんだったな。

焼山から先は風景が一変し、岩と砂の稜線が続いている。この先へ歩いていけないのは残念だがしかたない。ここまで来れただけでも十分だろう。この先の稜線はいつか必ず、次回は向こう側から歩いてこの頂に登ろう。

せっかく登った焼山なのですぐに帰るのはもったいなく、うろうろ歩き回ったり寝転んだりして、30分ほど山頂にとどまった。

さて、まだ半分だ。ここから高谷池まで帰らなくてはならない。先ほど登った崖のような急斜面を、こんどは下っていく。日は傾き、空は夕暮れ色に染まり始めている。暗くなるまでに火打山まで行けたら御の字だろう。

日が傾いて良いこともあった。暑さが和らいだので、あまり汗をかかなくなったのだ。手持ちの水は残り少ないが、水切れになる心配はなさそうだ。

とはいえ喉は渇いている。ヒュッテの売店が営業してるうちに帰り着くのは諦めモードだが、もしかしたら少し遅くまで開いてるかもしれない、閉まってたらお願いして開けてもらおうか、そしたらまずはスポーツドリンクを一気飲みして、ビールも飲みたいな、水も買っておこう、でもまずはスポーツドリンクだ、二本買って一本目は一気飲みし、もう一本はゆっくり味わって…歩いているあいだ、ずっとそんなことを考えている。スポーツドリンクの幻覚が見えそうだ。

鞍部を越えて火打山への登りに取りかかる。最初のちょっとした岩場を越えてしまえば、あとは日が落ちて暗くなっても問題ない。

眺めていたときは大変そうに見えてた火打山への登りだが、意外なほどにサクサクと上がれる。涼しくなって体が楽になったのもあるが、やはり焼山への登りと比べるとずいぶん緩やかに感じる。

夕陽が焼山の向こうへ沈んでいく。ダイヤモンド焼山だ。

空は橙色から薄紫色、そして藍色へと移ろい、夜の帷が下りてきた。火打山にもどった時には、あたりは完全な闇に包まれていた。

昼間はあんなに賑わっていた山頂に、いまは他に誰もいない。高谷池の灯りが闇の中にぼんやり浮かんでいる。あとはあそこまで下るだけだ。

高谷池に帰り着いたのは、夜7時半を過ぎたところだった。ちょっとだけ期待したが、ヒュッテの売店は当然のように閉まっていた。テントサイトもひっそりと静まり返っていて、いまから夕飯の支度をする気にもなれず、疲れ切って食欲もないので、残りわずかの水をひと口だけ飲んでシュラフに潜り込んだ。

翌朝、ゆっくり目を覚まし、外を見ると完全にガスの中であった。当初の予定では、今日が焼山へ登る日になる。やっぱり昨日行っておいてよかった。もしもアタックザックを忘れなければ、今ごろガスの中を歩いていたことになる。そう思うと、忘れ物もなにかの思し召しだったのかもしれない。

帰り道、展望のある最後の場所で、奇跡的に一瞬だけガスが切れて、火打山とその奥にある焼山の姿を目に収めることができた。

なんだか微笑みかけられてるような気がしたし、また来いよという声が聞こえた気がした。

2022年9月