その先の稜線 – 火打山編

何年か前、火打山の山頂に立ち、その先の稜線を望んだ。ゆるやかに連なる山並みの先には、ひときわ目立つフジツボ型の厳つい山。焼山だ。山腹からは噴煙が上がっている。

あそこまで行ってみたい。その景色には、そう思わせるに十分な魅力があった。

当時は噴火の恐れがあり通行止めになっていたが、数年前から通行可能になっている。とはいえ、雨飾山まで抜けるとなると三日はほしい。天気のいい三連休となるとなかなか難しく、絶好の機会を窺っているうちに時は過ぎていった。

ようやく今年はその機会が巡ってきたと思えば、あいにくの台風接近である。初日は高谷池ヒュッテ、二日目は大曲で三日目に雨飾山の予定だったが、二日目から三日目にかけての天気が悪そうなのと、林道の通行止めもあって、初日は予約のある高谷池ヒュッテでテント泊し、二日目に焼山ピストンして下山することにした。

縦走できないのは残念だ。高谷池の予約がなければ、おそらく延期にしていただろう。だが、それではいつまでたっても登ることができない。とりあえず行ってみる勢いをつけるには、予約制テント場も悪くはないのかもしれない。登ってみなければ始まらないのだから。

初日は三時間もあれば高谷池に到着する。のんびり出発して、テントを設営したら昼寝しよう。夜通しの長時間運転で登山口の駐車場に着き、わずかに仮眠しただけである。

そんなことを考えて、車の中でうだうだしているうちに、とんでもない忘れ物をしてることに気づいた。アタックザックを持ってきていない。

二日目は早朝に撤収し、ザックをデポして焼山ピストンの予定である。しかし、アタックザックが無いとそうもいかない。可能な選択肢は二つ、ひとつはテントを設営したままのピストンだが、あまり広くない完全予約制のテント場で、しかも戻りがそこそこ遅くなりそうなので、それはダメだ。二日目のテントも予約はいっぱいだ。場合によっては顰蹙ものだろう。もうひとつはテント装備をすべて担いでの焼山ピストンだが、これは体力的にかなりつらい山行になりそうだ。距離が長く時間もかかるので、手ぶらで行ってくるのは不可能である。

どうしよう…諦めかけたとき、もうひとつの案が浮かんだ。

そうだ、今日のうちにピストンしてしまえばいいじゃないか!明日の天気がどうなるかわからないが、今日なら完全な快晴が約束されている。

そうと決めたらすぐに出発だ。すでに日は昇っている。

高谷池には予定通り3時間で到着したが、水場が枯れていたのは予定外だった。いちおう4リットル担いできたが、日差しは強く気温は高く、すでに半分近くを消費している。売店で飲料を購入しておこうかなとも考えたが、やめておいた。ケチもあるし他人の手を借りたくないという気持ちもあるが、まあなんとかなるだろうと思ったのだ。売店は19時までやってるとのことなので、夕飯や明日の分が足りなくなりそうなら帰ってきてから買えばいい。

天狗ノ庭を抜け、火打山へと登り始めてすぐに、これはダメだと思った。とにかく眠い。眠くて体が動かない。

高谷池まで3時間歩くだけなら大丈夫だろうと、昨夜はあまり寝ていない。登山口に到着したのは深夜というより早朝に近い時間帯だった。それからわずかの仮眠で歩き始めている。本来なら今ごろはテントでのんびり昼寝してたはずだ。

喉も乾いた。遮るもののない稜線では、太陽が容赦なく照りつける。すでに脱水症状であるが、手持ちの水は心もとない。一気飲みしたい衝動を抑えて、ひとくちの水で乾きをまぎらわす。

寝不足と脱水、毎度毎度同じ過ちをくり返している。でもまあしかたない。会社勤めで金曜夜の出発だと、どうしても睡眠時間は短くなってしまう。水だって背負える量には限度がある。今回は途中で補給できなかったのが計算外だった。意地を張らずに小屋で購入しておけばよかったが、後悔先に立たずである。

体が重くて登れない。後から来た登山者に次々と抜かされていく。視界が眩しい。意識が遠のいていく。歩きながら寝てしまいそうだ。

このペースではとても無理だ。今回は諦めよう。火打山へ登って高谷池でキャンプ、それでいいじゃないか。あと少しだ、せめて火打山には登ろう。山頂に着いたら昼寝して、高谷池にもどったらスポーツドリンクを飲もう。

倒れるようにして到着した火打山の山頂は、キラキラした登山者たちで盛況であった。ふらふらよろけながら端の方へ行き、ザックを枕にして寝転んだ。目覚ましはかけず、好きなだけ寝ることにした。

どれくらい寝ていたのだろう。

目が覚めても周囲は変わらず賑わっている。夕方まで眠りこけてしまったというわけではなさそうだ。とはいえ、午後は大きく回っているだろう。時計を見る気にはなれない。今回はここでおしまいか、残念だがしかたあるまい。

ゆっくり立ち上がり、気だるい動作でザックを背負った。顔を上げて、この先の稜線を見つめた。やっぱりいい稜線だな。緑の山並みの先には、焼山が水蒸気を噴き上げている。

その時、なぜだかわからないが、一歩を踏み出してしまった。この先の稜線へ。

冷静に考えれば無謀だ。火打山への登りで大幅にCTをオーバーしている。さらにはたっぷり昼寝もした。計算しなくてもわかる、帰りは真っ暗になるのは間違いない。寝ぼけていたのかもしれない。ただなんとなく吸い込まれるように向かってしまった。だが不思議と、大丈夫だという気持ちが心のどこかにあった。

つづく