雨降る南アルプス 3

急げ。早くしろ。

濡れたテントを乱雑に畳んでザックに突っ込んだ。湿ったシュラフやその他のあれこれもだ。

急げ急げ。少しでも早く山頂へ近づこう。

四日目の朝は、森林限界を超えた稜線で迎えた。東の空が薄赤色に染まっていく。

谷の向こうは大きな悪沢岳。進む先には優美な蝙蝠岳。雲の海に浮かぶ富士山。そういえば、四日間を通じて富士山が見えたのは初めてだ。

天気が良くなるのはわかっていた。夜中にテントの外へ出るとすでに雨はやんでいて、夜空に宝石を散りばめたような…という陳腐な形容しか思い浮かばないほどの圧倒的な星空が広がっていた。あまりの見事さに、見上げたままの姿勢から動くことができなかった。そして、明日の朝はできるだけ早く出発しようと思ったのだった。

少しづつ標高が上がり、少しづつ周囲が明るくなっていく。東の空は薄紫から薄紅色、そして黄金色へと移ろいゆく。

はやる気持ちと一歩一歩かみしめる気持ちの両方を交互に味わいつつ登頂。

日が昇ってくる。最高の瞬間だ。

ここまで四日間、長かったようであっというまだった。

山頂にはだれもいない。だれも登ってこない。ほんとうにいい山には、訪れる人は多くない。

しかし、この静けさもいつまで続くのだろう。

リニアが開通すれば、世界は一変する。

いまは携帯もつながらず、長閑な静寂に包まれていた二軒小屋だが、リニア駅ができれば人が溢れ、やがては上高地のようになるだろう。蝙蝠岳も日帰りで気軽に登れる山になるかもしれない。そうなれば、いまとはまったく違う山になってしまう。

登頂の喜びは、登頂の困難さに比例する。

いつまでもいたかったが、そろそろ先へ進まねばならない。まずは塩見岳を目指していく。

塩見の山頂から眺めて、歩きたいなと何度も思ったこの稜線。ついにその日がやってきた。

天気も最高。青空が広がっている。青空の下の緑の稜線は美しい。

振り返ると蝙蝠岳の端正な三角錐。いい山だったな。こんどはいつ登れるだろう。

登って下って登って下ってを繰り返し、仙塩尾根と合流した。ここまで来ると登山者も多少はいる。二日振りに人類と会話をかわした。

塩見への登りをゆっくり登っていく。疲れが溜まっているのでスピードは出ない。しかし気分は高揚している。あそこが今回の旅の最後の目的地だ。

塩見岳…想いの詰まった山である。生涯ずっと心に残る想い。

年に一回くらいは来たいけど、なかなか来れないからいいのかもしれない。

しばらく東峰にいて、西峰へ移動。このままここに留まっていたい。時間はまだある。しかしそろそろ下山を開始したほうがいいかもしれない。

山頂に着いたころからガスが上がってきた。あれほど青い空が広がっていたのに、まもなく灰色の雲に覆われてしまいそうだ。

このあと激しい雨が降るのが、夏の山のお約束だ。今日も同じパターンだろう。

ガスに巻かれながらガラ場を下り、小屋を過ぎたところで突然きた。豪雨だ。ものすごい量の雨が一気に落ちてきた。

慌ててレイン装備を身につける。

まだいくつかのピーク超えは残っているが、すでに下山路である。道も完ぺきに整備されていて歩きやすい。スピードを上げて一気に行く。

縦走が終わってしまうのがさみしい…なんて気持ちはまったく浮かばず、とにかく早く雨から抜け出したかった。

ハイピッチで歩いてあっというまに三伏峠まで降りてきた。ほんとはここでもう一泊して、明日ゆっくり下山する予定だった。

三伏峠に着いたときは雨はやや弱くなっていたので、予定通りここで宿泊するのも一瞬考えたが、濡れて異臭を発してるテントとシュラフでもう一晩過ごすのは耐えがたい。このまま下山することにしよう。

三伏峠を過ぎてすぐに、また土砂降り。それもいままで以上の激しい降り。ゲリラ豪雨の中の下山だ。

三時間ひたすら耐えて鳥倉のゲートまで戻ってきたときには、思わずガッツポーズが出た。

心に残る山旅だった。まちがいなく一生ものだろう。

濡れたザックを助手席に放り込み、レインウエアを脱いで、車に乗り込んだ。