Feel the moment! – 石割山 / 御正体山 / 高指山

なんだかグダグダな山行だった。

石割山から御正体山を目指し、帰りは道志川を挟んだ反対側の山脈に移って、行けるところまで行こうと考えていた。

いや、いちおう、だいたいは当初の予定通りに進んだんだけど、それにしても心情的にはグダグダな山行だった。

とはいえ、最初からグダグダだったわけではない。石割山に登り、御正体山に到着するまでは快調だった。この間、CTよりずいぶん速く歩いているはずだ。

肉体の輪郭は曖昧になって、自分という存在が周囲の自然に溶け出していくようなあの感じ。過去も未来もなく、いまこの時しかなく、一瞬が永遠であり、永遠が一瞬のようなあの感覚。世界はキラキラと輝いていて、つかれもなく無意識に軽やかに足が動くあの感じ。

ぼくが山に登る時に求めているあの感覚。確かにそれはそこにあった。御正体山に登るまでは。

それがなぜ、帰り道にはあんなにグダグダになってしまったのだろう。

思い返せば、帰り道はいつもグダグダな気がする。

今年の初め、爆風の赤岳に登ったときもそうだった。

横殴りの風が吹き荒れ、氷の粒が吹き付ける稜線。登頂するまでは、集中しつつもリラックスし、完ぺきに歩けたと思う。それが、文三郎尾根に入り、風も穏やかになった時点で力が抜けてしまったのか、なんでもない下りで膝が崩れてペタリと座り込んでしまった。すると、あれよあれよという間に、カチカチに凍結した滑り台のような尾根を滑ってしまい、あわててピッケルで止めることになった。

その後も、南沢の平坦な場所でアイゼンを引っ掛けて吹っ飛ぶようにすっ転び、足がつってしばらく座り込んだりもした。

それがもし爆風の稜線だったら、かなり危険なのだけど、そういうところではそんなことはしない。なのに、帰り道のイージーなとこで、ありえないようなミスをしてしまうことがある。

赤岳の件は、一例だけど、だいたいいつでもこんな感じだ。行きは速いけど、帰り道はやたらと時間がかかる。それによく転ぶ。

なんでだろうと考えた。

登頂してホッとして気が抜けると、その後は危ない。わかってる。山の事故の大半は下山時に起こる。知ってるよ。無事に下山して帰り着くまでが登山だ。そんなことはわかってるって。そんなことは頭ではわかってる。わかってるから気をつけている。でも、行きにはあえて意識しなくてもなんともないのに、帰り道では注意しててもミスる。

だいたい、集中しようとして集中するのは集中していない証拠だ。ゾーンは入ろうとして入れるものではない。その瞬間は意識されない。それは自然にいつの間にかそうなっている状態。眠りに落ちるのと同じように。

そういえば帰り道では、永遠の宇宙と一体となったあの美しい感覚に達することはあまりない。考えているのは、あとどれくらいで下山かなとか、まだかよダルいなとか、あの野郎ムカつくぜとか、仕事うまくいかねえなとか、そんなことばかりだ。

これはやっぱり、帰り道を帰り道だと感じてるせいなんじゃないかと思う。

下りが苦手とかそういうこととはちょっと違う。目指す山に向かう途中で下りがあっても、その下りは迷い無く素早く下ることができる。なのに、帰り道の下りはゆっくり歩いても転けるんだよ。それに、帰り道の登りは辛くて遅い。

目的の場所に到達した後は、どうしても気力が抜け、集中力が落ちてしまうのだろうか。

確かにこの日も、石割山から御正体山へ向かうのがメインで、帰りの歩きはオマケのように思っていた。だから御正体山からの下りで、あんなにグダグダになり、時間もかかってしまったのだろうか。

これが例えばウルトラマラソンだったら、こうはならないはずだ。マラソンでは、ゴールは明らかに終着点だ。たとえ途中でどんなピークを通過しようとも、そこはあくまでも通過点でしかない。

でも、登山だと少々違う。下山した先のバス停や駅や駐車場をゴールとするのは、もちろん頭ではそこがゴールだとわかっているけど、無意識の底まで納得しているかというと、そうでもないのだろう。やはりどうしても、目指すピークがゴールのような錯覚に捕われているのではないかと思う。

御正体山からの下りはCTをだいぶオーバーしていた。いくら凍結してたからといって、かかり過ぎだ。分岐から山伏峠までは、凍結個所もないのにさらに時間がかかっている。泥々で滑り難儀したけど、だからといってかかり過ぎだ。普通なら軽快に飛ばして行けるはずの下りなのに、だ。

こんなところでこんなに時間がかかるなんてと、情けなく歯がゆかった。たかだか20キロ足らずでこんなにグダグダになるなんて。

これはやはり、心と体の問題なのではないか、と思う。

大棚ノ頭までなんとか登り、そこでようやく気持ちを立て直して、そこからは、まあまあのペースでミス無く進むことができた。

ほどなくして視界が開け、山中湖と富士山が目の前に現われた。

目の前が開けたカヤトの原に寝転んで、さてどうしたものかと考えた。

本来、登山とは、どこから入りどこを通ってどこへ抜けるか、その全てだ。しかしどうしても、その途中の、目指すピークに達することが登山だと錯覚してしまう。縦走ならまだしも、ピストンや周回だとなおさらだ。

これはある意味、登山の宿命かもしれない。それを無理矢理、下山するまでが登山だと強弁しても、心が伴っていなければなんの意味も無い。まあ、そのことがわかっているだけでも、グダグダになった時の気持ちの切り替えには有効だろう。

目指すピークは大切だ。ゴールももちろん大切だ。そこまであとどれくらい歩くのか、ルートの状態はどうなのか、天気はどうか、水はじゅうぶんか、エネルギーは足りてるか、装備に不備はないか、そういったことはもちろん重要だ。

でもそれは、最も重要なことではない。

大切なのは、いまこの瞬間を歩くこと。過去の様々な出来事や、未来への不安や、あれやこれやがすーっと消えた、いまこの瞬間だけを歩くこと。扉の向こう側の世界で、一瞬が永遠の美しい宇宙に包まれて歩くこと。

帰り道でもそれができれば、きっともうワンステップ上がれるんじゃないかと思う。

高指山の山頂は気持ちよく、このまま夕方まで寝転んでいようかなとも思ったけど、風が冷たくなってきたので下山することにした。

ゴールは駐車場。そこまでの道のりを頭の片隅で計算しつつ、いまこの瞬間だけを歩いて帰ろう。