祈りと雨乞い – 雨乞岳

人は、意志の力で雲を消すことができる、というと胡散臭く思われるかもしれません。

しかし、なんだか見られてるような気がして、あるいは何気なしに顔を上げたら、誰かがじっと自分を見てたって経験は、だれにもあるのではないかと思います。
目には見えないし科学でも証明されてませんが、意識は離れたところに飛び、影響を与えうるのです。

念ずれば物質を変容させることもできる。水蒸気の分子ほどの軽いものなら、簡単に消すことができるのです。
重要なのは、念ずる人が本当にそれができると確信していること。表面的に願うのではなく、無意識の底で信じていること。

自分はうまくいくと信じてる人は、たいていうまくいくものです。晴れ男や雨女というのは偶然ではなく、その人の心の作用であるはずです。
信じる力が強ければ、水をワインに変えることも、海の上を歩いて渡ることも可能になるのです。

それを奇跡と呼ぶのか、ひも理論で説明するのか、引き寄せの法則というのかは様々ですが、意識の力が世界を変える、その点では共通しています。
「神の王国はみなの心の中にある」と語った男は、このことをよく知っていたに違いありません。

祈りが世界を変える。
この能力を使って雨を降らせたのが雨乞いなのでしょう。

雨乞いは日本だけでなく、古今東西広く世界で行われていました。古代ローマでもエジプトでも雨乞いの儀式は執り行われていたのです。
もし雨乞いに効果がないなら、これほど広範囲で継続して行われることもなかったはずです。

古代世界では貴重な雨の恵みを願う気持ちはとても強かったでしょう。現代ほどには人々に疑いの心もなかった時代です。
祈りの力は強力だったに違いありません。

日本各地でも様々な雨乞いの儀式が執り行われてきました。
火を炊き、太鼓を打ち鳴らしたり、地面に水を撒いたり、踊りを踊ったり、牛や馬の内臓を池に投げ込んだり、お地蔵さんを縄で縛り上げたりと…。

儀式はツールにすぎません。行為それ自体が雨を降らせるわけではないのです。
踊りを踊ったから雨が降ったのではなく、踊りを踊ると雨が降ると固く信じている、または踊りを踊ることで雨が降るよう強く祈っているからこそ雨が降るのです。
形式だけを模倣しても、心が伴っていなければ、なにも産み出すことはできないでしょう。

雨乞岳あるいは雨乞山という名の山は、ざっと数えただけでも全国に30近くあります。
そんな中のひとつ、南アルプス北部の雨乞岳へ登ってきました。

この山での雨乞いについて、簡単にまとめられたいくつかの文章の他には、詳しく記述されているものを見つけることはできませんでした。
おそらく同一の出典からの短い記述をまとめると、次のようになります。

・麓の石尊神社に参拝してから登った。
・山頂付近で雨乞いの儀式を行った。
・山頂東の流川源流に岩を落とし、空気を震えさせて雨を降らそうとした。

落石の振動で雨を降らせるとは、なかなか科学的に聞こえます。少なくとも、お地蔵さんを縛ったり、臓物を池に投げ込んだりとかよりは…。

さすがにいまではもう雨乞いは行ってないでしょうが、いつ頃まで行われていたのか、どんな大きさの岩を落としたのか、いくつも落としたのか、岩はどこから調達したのか、火は燃やしたのか、踊りは踊ったのか、お地蔵さんを縛ったのか、興味は尽きません。

山頂では、雨乞い儀式に関連するような痕跡はなにも見当たりませんでした。
山頂以外には付近に平坦な場所はなく、おそらくここで儀式を執り行ったのだと思われます。東側は深い谷になっており、そこから谷底の流川へ向けて岩を落としたのでしょう。

登山前には麓の石尊神社にも参拝しました。
しかし、境内にいくつかある案内板には、雨乞いについての記述は全くありませんでした。

雨乞いの儀式は廃れて久しいのでしょう。
いまではみな、雨乞いより天気予報をあてにしています。
科学という名の迷信がはびこる現代社会には、祈りで雨を降らせる能力は受け入れられないのかもしれません。
でもそれは、時代を大きく先取りした、宇宙の法則に合致する本物の科学の可能性もあるのです。

雨乞いに対して、民族学的な見地ではなく、物理学からのアプローチが待ち望まれます。