夢のあとさき – 後編

六畳一間トイレ共同の安アパートが、青春時代のK女史の城でした。

大家さんは隣りに住んでいて、夫婦と小学生の子供四人で賑やかに暮らしてました。子供たちと仲良くなったK女史は、遊び相手になったりもしていました。

「なんかね、大家さんの家庭を見てたら、こんな暮らしもありなんだなって思ったな」

○十年前の田舎の子沢山の家庭ですから、それほど裕福ではなかったかもしれません。九部屋のアパートとガソリンスタンドを経営して、一家六人の生計を立てていました。

早朝からガソリンスタンドを営業してほしいというお客さんの要望が多く、でも大家のおじさんはそんな朝早くからは無理だということで、早朝6時から8時まで、K女史が大家さんのガソリンスタンドでアルバイトすることになりました。

小さな町ですし、お客さんは常連ばかりです。すぐにみなと親しくなり、そんな中のひとり、椎茸栽培の中野さんといっしょに山へ椎茸取りに行ったりもしたのでした。

「いまでもガソリンスタンドやってるかなぁ」

どうでしょうね。ガソリンスタンドってけっこう閉店してますからね。

「そうだよね…」

出発してから三時間ほどで屏風岩まで上がってきました。

ロッククライミングのゲレンデを見上げながら、岩の基部を通過します。

しだいにガスが上ってきて、早朝はあんなにくっきり見えてた富士山も、いつの間にか姿を隠しています。

富士山の展望で名高い三ツ峠山ですが、まだ一度も山頂から富士山が見えたことありません。

相性の悪い山ってのはあるもので、どうやら今回もまたダメなようです。

娘時代のK女史が住んでいた都留市は、端から端まで歩いても10分ほどの小さな町でした。当時は店も数件しかなく、誰もが立ち寄り先は限定されていました。

「みもざ荘ってアパートの向かいにコンビニがあって、みもざ荘の人たちは、たいていそこにいたわね」

誰かを探したければ、あそこかあそこを見てくればいい、当時の都留市はそんな町でした。

「いっつもコンビニで漫画を立ち読みしてたみもざ荘の小野寺くんが試験に受かった時は、世の中って不条理だなって感じたわ…」

秋田よりずっと田舎の都留市で暮らすK女史にも、挫折はあったようでした。

稜線に出て、まずは開運山を目指します。

砂地で滑る急坂を登り山頂に着きましたが、やはり富士山はガスの中。わかってはいましたが…。

しばらく待っても一向に晴れそうもないので、先へ進むことにします。

いちおう三つのピークを踏んでおこうってことで、次は御巣鷹山まで歩きます。頭上には時おり青空も見えますが、富士山方面はガスで真っ白です。

電波塔に占領されてる御巣鷹山まで歩き、再び開運山方面へもどります。

「あっ、ここ曲がるとスーパーでしょ!」

窓の外の暗い町並みをぼんやり眺めていたK女史が、突然大きな声をあげました。

「あっちが駅よ!」

どうやら記憶の町並みと現実世界が一致してきたようです。

「もう少し行くと川渡るから。川を渡ったらバイトしてたガソリンスタンドがあって、その横を入るとアパートがあるの。あっ、ほら! 川! 川渡った!」

えっ? 川? 渡りました?

運転してると気付かないくらいの細い川だったようです。

「それで、もう少し行くとガソリンスタンドが右側にあって…」

あった。

深夜のガソリンスタンドは真っ暗で、いまでも営業してるかどうかはわかりませんが、スタンド自体は記憶の場所に記憶の通りにありました。

「そこ、その脇道に入るの」

えっ、ここ入るんですか?

それは車の横幅いっぱいの細い路地で、真っ暗な深夜に車で入ろうとはなかなか思えない道でした。

「うーん、こんなだったかな…。どっちだろ」

薄暗く細い路地に突っ込むと、K女史はなかなか人を不安にさせるような言葉をつぶやいています。

「うーん、こっちに行ってみて」

指差す先には、この先行き止まりと書いてありましたが、黙ってそちらへ車を向けます。

ひとの気配を感じない、寝静まった深夜の路地裏を、ゆっくりゆっくりと進んでいきます。

「あっ、ここ、これかな…? これだ…。間違いない。一階が車庫で、二階がアパートだったの…」

看板もなにも出ていないその建物は、いまでも部屋を貸してるのかどうかわかりません。改築されたのか、記憶と多少違う箇所もあるようです。が、確かに○十年前と建物の構造は同じであり、ここで間違いないようでした。

「いまでもあったんだ…」

暗い闇の中に佇む青春時代の我が家を見上げて、K女史がポツリとつぶやきました。

「なんだか夢のよう…」

開運山までもどっても富士山は全く姿を現わす気配もありません。朝はあんなに晴れてたのに…。

もやもやした気分のまま木無山へ向かいます。

ピーク感のあまりのなさに、ここが山頂なの?って思わず唖然とする木無山まで歩き、来た道をまた引き返します。

もう歩くとこもありません。早朝は静かだった山も、お昼近くになり団体客も登ってきていて、山荘の周りは多くの人で賑わっていました。

山荘と山荘の間の開けた場所の隅に座り、お昼ごはんを食べることにします。

担いできたラーメンと具を茹でて、まずはK女史の分を作りました。コッヘルが小さいので、ひとり分づつしか作れないのです。
再びお湯を沸かし、ラーメンと具を茹でて、ようやく自分のお昼ごはんもできました。

「あっ、ほら!富士山見えるよ!」

ようやく出来上がったラーメンを食べようとしたとき、K女史が背後を指差して言いました。

振り向くとそこには確かに富士山が。

食べようとしたラーメンを置いて、富士山がよく見えるところへ歩いていきます。

「ラーメン冷めるかな?」

まあでも、またガスが出てきちゃうかもしれませんし。

気づけば先ほどまで賑やかだった団体客も全て下山していて、周りには他にだれもいません。

ガスはまだ多く、完全にすっきりとではありませんが、ちゃんと富士山だとわかる程度にははっきり姿を現してくれています。

「最後に見えたね」

最後に見えてよかった。見えると見えないとでは全く違いますからね。

「日ごろの行いがまあまあだからね」と言ってK女史は笑いました。

夕暮れの都留市は、深夜とは打って変わって、それなりの賑わいをみせていました。

「ここに村さ来があったのよねえ。あの角はうなぎ屋さんだったのに。あっ、ここまだやってるのかな?」

○十年前と比べればずいぶん賑やかになった都留市には、大きなマンションやおしゃれなお店もできていました。K女史がお腹を空かせて買い物に行ったスーパーは、改装して大型店舗になっていました。

無くなってしまったところも多く、みもざ荘も小野寺くんが漫画を立ち読みしていたコンビニも、いまはもうありません。

あそこが…アルバイトしてたガソリンスタンドですよね…?

夕暮れの道の先に見えるガソリンスタンドには、明かりが灯っていました。

「やってるんだ…。おじさんいるかな?」

スタンドに車を入れてもしばらく誰も現れず、ほんとに営業してるんだろうかと不信に思い始めたとき、小柄なおばさんが出てきました。

「あ~!」と言いつつ、K女史は車から飛び降りていきます。○十年前の大家のおばさんのようです。

「こんにちは、わたし以前にアパートに住んでて、ここでバイトしてた…」とK女史は名乗りました。

「うーん。たくさんいたからねえ…」

おばさんは首を傾げています。

「覚えてない?」

「覚えてないねえ…」

○十年前のことだというと、「そんなに昔の話か…」とおばさんは記憶をたぐり寄せているようでした。

「あなたもムササビ見に行ってたの?」

「はい。今泉先生いまでもいます?」

ムササビの先生は、もうどこかへ行ってしまったそうです。山から滑空して神社にやってきていたムササビも、いまではもう現れないようです。椎茸栽培の中野さんは、体をこわして療養しており、最近はあまり姿を見ないといいます。

「おじさんは、元気ですか?」

「亡くなったよ。三年前に」

そうなんだ。三年前か…。

「いまは上の息子が後を継いで、いっしょにやってるよ」

○十年前にK女史が遊び相手になっていた小学生の子供も、いまでは立派な中年経営者になっていました。都留市で生まれ都留市で育ち、家業を継いで都留市で生きていくのです。

「アパートもやってるよ。あなたの頃は女の子だけだったけど、いまでは男の子を入れてるの」

季節は移ろい月日は流れ、変わってしまったものもあれば、亡くなってしまったかたもいるけれど、こうして代を継いで継承されていくものもあるのでしょう。

過去の扉が優しく開いて現在とつかの間の交わりをみせる不思議な時間も、そろそろ終わりに近づいてきました。

「また、近くに来たら給油してよね」

はい、必ず。

甘酸っぱい記憶の旅を共有したそれぞれは、また再びそれぞれの今に向かって歩き始めました。