夢のあとさき – 前編

「三ツ峠山に行ってみたい」とK女史。

週末はS子先輩と三人で奥秩父のマニアックな山に登る予定でしたが、S子先輩が急用で不参加となってしまったため、S子先輩希望のマニアックな奥秩父の山行きも宙に浮いてしまったところでした。

「以前に三ツ峠山の近くに住んでたことがあって。当時は山登りしなかったから、登ったことはないけど」

えっ? 住んでたんですか? 三ツ峠山の近くに?
それは、人があまり登らない奥秩父の山に登るより、よほどマニアックですよ…。

なんでも、秋田の田舎を出てきた娘時代のK女史が、上京して最初に住んだのが都留市なのだとのこと。
初めてのひとり暮らしが都留市…。それは相当マニアック…ていうか、都留市って上京と言っていいのでしょうか…。京は通過してる気がしますが…。

まあ、とにもかくにも、行き先は三ツ峠山と決まりました。

三ツ峠グリーンセンターから舗装路を登って登山口を目指していくと、しばらくしてポコポコポコと三つのかわいい三ツ峠山の頂が見えてきます。

あれが開運山に御巣鷹山に木無山かな?と思うものの、なんだかちょっと違う気もします。

案内板を見ると、どうも左が屏風岩で、真ん中が開運山のよう。

じゃあ右はなに? 御巣鷹山や木無山は見えないの? 三つの頂があるから三ツ峠山じゃないの? ていうか、峠と頂じゃ全く正反対か。じゃあ、三つの峠ってどこ?

水害の多い山で、以前はミズ峠山と呼ばれてたのが三ツ峠山になったという説もあり、山の名前の由来にははっきり確定できないものが多いのでした。

K女史が初めて都留市に来たのは、しとしと雨の降る○十年前のある寒い日。夜が始まる少し手前の薄暗くなりかけた時刻に、ひとり無人駅に降り立ったのでした。

「なんて寂しいところに来ちゃったんだろって、雨も降ってるし、涙が出てきたわ」

晴れの門出とは程遠い、上京?初日であったようです。

「みんな、どてら着て町を歩いてるのよ。お年寄りだけじゃなくて若い男女も!」

確かに○十年前とはいえ、わたくしの田舎でも、さすがにどてら着て外出はしてなかった気がします。

「もう、なんて田舎に来ちゃったんだろって思った。秋田よりずーっと田舎だった…」

秋田の豪雪地帯で生まれ育ったK女史の目にも、都留市はかなりの田舎町に写ったようです。

「帰省で地元の秋田に帰ると、親戚のおじさんに、東京行ってあか抜けたな~なんて言われたけど、絶対ないから。だって、どてら着て歩いてるんだよ。それに、そもそも東京じゃないし…」

登山口からは、ひたすら登り坂を登ります。
予想はしていましたが、全く雪はありません。

「秋みたいだね」とK女史。

確かに冬の気配は全くありません。いちおう雪山装備も持ってきましたが、どうやら使わずに終わりそうです。

出会う人もほとんどなく静かで長閑な山道を、ポカポカ陽気の中、のんびり登っていきます。

冬晴れの青空に輝く富士山が、木々の間に大きく聳えていました。

深夜の国道を走り続けて都留市内に入ってから、K女史はずっと窓の外の暗い町並みを眺めています。

「うーん、こんなだったかなぁ。こんな立派な家はなかったなぁ」

どうやら記憶の風景と現実の景色が一致しないようです。

K女史が都留市を離れて○十年、再び訪れるのは今回が初めてだそうです。

「電車の窓から眺めていると、このへん掘っ建て小屋がいくつも建ってて、すごいとこに住んでるなぁって思ったのよね」

さすがに現代では掘っ建て小屋みたいな家はありません。車の窓から見えるのは、普通の寂れた田舎の町並みです。

「こんなにたくさん家はなかったなぁ」

記憶の町並みと目の前の景色がなかなか一致しないK女史でしたが、それでも当時の思い出が少しづつ少しづつ蘇ってくるようでした。

三ツ峠山はかつて、信仰を集める修験の山でした。

霊峰富士を大きく望む山ですから、修験者が放っておくはずがありません。山中には多くの修験の者が住み着いていたといいます。

しかしそれも明治政府の修験禁止令と国家神道を進める上での廃仏毀釈により、すっかり廃れてしまいました。

いまでも当時の痕跡は残っており、表参道にはかつての信仰を伺わせる遺物が点在しています。しかし、あまり手入れはされてないようで、崩壊しているものも多く見られました。

そんな中に、紀州那智からの巡礼者の真新しい木札を見つけたりすると、いまに息づくかつての信仰を垣間見た気持ちになり、ちょっと嬉しくなったりもするのでした。

「ムササビの研究してる先生がいて、先生が建てたムササビ小屋に泊まってムササビが来るのを待ったなぁ」

「星が綺麗だからさ、天体観測所で星の観察してたよ」

「椎茸栽培してるおじさんと親しくなって、山に椎茸を取りに行ったりもした」

記憶の扉がそっと開いて、青春時代の思い出が次々と溢れ出てくるようです。

「不思議ね。いつもはこんなこと全く思い出さないのに」

ムササビとか星とか椎茸とか、都留市暮らしもなかなか楽しそうです。

「全然。華やかなことなんて、なんにもなかったわ。だって、こんなとこよ~!」

甘酸っぱい思い出でいっぱいのはずの都留市ですが、K女史はややdisり気味のようです。

「あの頃にもどりたいなんて、全く思わない」

えっ? そうなんですか?

「だって、お金なくてシーチキンと刻んだ生姜といっしょにお米を炊いて、シーチキン炊き込みご飯食べたり、そうめんばっかり食べ続けて飽きたから、そうめん炒め食べたりしてたのよ」

いまではK女史はあまりシーチキンを食べたくないそうです。青春時代に食べ過ぎたせいで。

「お腹が減ってなにか食べなきゃ起き上がれないけど、起きてスーパーに行かなきゃ食べる物がないってこともあったなぁ」

それはそれで、いまとなってはいい思い出…でしょうか。