秋の北八ヶ岳

「きれ~!!きれ~〜!!!」

次々と車窓を流れていく紅葉した木々に、助手席のK女史が声を上げます。

「もうこれでじゅうぶん。もう登らなくてもいい」

いやいや、まだ登山口にも着いてませんよ…。

ミドリ池入口に車を停め、「ここまででもうじゅうぶん」というK女史をなだめすかして、本沢温泉へと向かいます。
初日は本沢温泉でテント泊し、二日目はテント装備をデポして天狗岳と硫黄岳に登る予定です。

そもそもこのルートに決まったのは、K女史の強い希望でした。

今回の山行の行き先候補を入念にチェックし、「一番これが楽そうだ」という理由でK女史が決めました。なにせ重いザックを担ぐのは、本沢温泉までの平坦な道しかありません。

「紅葉きれいだったね~。もうここまでで満足したな~」

よっぽど歩きたくないようです。K女史はほんとに山が好きなんだろうか?としばしば疑問に思います。

1時間半ほど歩いて、ミドリ池に到着しました。

ここまでほとんど平坦だったので、K女史もあまり文句も言わずに歩いてきました。

「ケーキ食べよう!ケーキ!」

しらびそ小屋のチーズケーキが有名とかで、わたくしも問答無用でお付き合いです。山の名前は全く覚える気のないK女史ですが、食べ物にはたいへんお詳しいです。

ミドリ池の向こうに天狗岳が見えていました。明日はあそこまで登ります。

「え~。けっこう遠くない〜?」

K女史は、イヤそうな顔で天狗岳の山頂をチラ見します。

どこの山でも、登る先に目指す山頂が見えるといつも、K女史はそれはもうほんとうにイヤそうな顔をします。

その度に毎度、K女史は山が好きなんだろうか?という疑問が湧き上がってきます。いや、山は好きなのかもしれませんが、山登りは確実に好きじゃないのでは、と思われます。

「荷物は置いて登るんだよね? 荷物は置いて登るんだよね?」

ええ、ええ、そうですよ。

「じゃあ、まあ、行ってもいいかな」

………。

しらびそ小屋から、さらに1時間半ほど歩いて、本沢温泉に到着しました。
テントを張ったら、あとは特にすることもありません。

「ちょっとそのへん歩いてみようよ」

珍しい…。いつもは到着したら、食べることと寝ることしか頭に無いのに…。今日はたいして歩いてないので、K女史も体力が有り余ってるのでしょうか。

それにしても、ちょっとそのへんって、どのへんでしょう…。
まあ、しかたないので、小屋を超えてさらに上へと登っていきます。

5分ほど登って野天風呂との分岐に来ました。

「ちょっと見てこよう」

そう言うと、K女史は野天風呂へと歩いていってしまいました。どうやら風呂が見たかったようです。ノゾキでしょうか。そんなに裸が見たいのでしょうか。

本日は、濁り酒飲み放題のイベント日で、小屋はずいぶん混雑していました。野天風呂へも、入浴客が続々と歩いていきます。きっと裸もたくさん見れるはずです。

「あれで600円か~」

戻ってきたK女史は、野天風呂の価格設定に文句を付けると、小屋の方へと降りていきました。どうやらノゾキをして満足したようです。

テントにもどり夕飯のしたくをしていると、陽が沈み辺りは暗闇に包まれていきました。

暗がりの中で食事をしてましたが、どうもK女史のヘッドライトが暗いようです。

「大丈夫!予備の電池あるから」

そう言ってK女史は二本の電池を取り出しました。いや、電池は三本必要だと思いますが…。

「うーん?変わんないよ。これでいいんじゃない?」

いやいや、暗いでしょ。三本のうちの二本を交換しただけでは意味がないと思いますが…。それにその電池、いつからザックに入れっぱなしなんですか…?

しかたないので、わたくしの予備電池と交換しました。

「あっかるーーい!!」

だから…………。

これで予備電池はなくなってしまいました。わたくしのヘッドライトもだいぶ暗くなってきていて、明日の朝は交換してから出発するつもりだったのですが、どうやらこの暗いライトで夜明け前の登山道を歩くハメになったようです。やれやれ。

翌朝。

せっかく山に泊まるのに、樹林帯で朝を迎えるのはもったいないので、暗いうちから出発し、夜が明けるまでに稜線を目指します。

わたくしのヘッドライトはやはりずいぶん暗くなっています。後ろを歩くK女史のライトからは強い光が放たれていて、周りを明るく照らしています。しかし、わたくしの足元とその先の肝心な部分は、自分の影になってよく見えません。なんとも歩きにくい…。まったく…。

暗い中を歩くことのあまりないK女史と離れないよう、ゆっくり登ります。それに、離れてしまうと、周りがよく見えなくなってしまいます。

そうしてまだ樹林帯を歩いているうちに、空が明るくなってきました。

あ~、間に合わなかったか~

葉を落とした木々の隙間から、昇る太陽が見えました。

ようやく樹林帯を抜けたときは、太陽は昇り切ったところでした。
朝の光に照らされて、輝く雲海が広がっています。

どこまでも広がる黄金色の雲海。

ここまで立派な雲海はなかなか見れないです。しかもそれが夜明けの光に輝いています。

「やっほーーーーー!!!!!やーーーっほーーーーー!!!!!」

興奮したK女史が大声で叫んでいます。山頂でもないのに…。

稜線に上がると、青空の下に伸びやかな天狗岳の双ニ峰が目に入ってきました。

東天狗と西天狗をつなぐ穏やかなスカイライン。

気持ちのいい朝です。

K女史も文句も言わずに黙って歩いています。

まずは東天狗へ。

そして西天狗へ。

東天狗は何度も通過したことがありますが、縦走路から外れてわざわざ登り返さないといけない西天狗は久しぶり。

こちらの方が広々として休憩するにはいいところです。

ひとしきり展望を楽しんだら、東天狗へもどり、さらには硫黄岳方面へ歩いていきます。

根石岳を通過し、広々とした稜線を進みます。

夏沢峠までやってくると、目の前には大きく聳え立つ硫黄岳が。

いちおう登るつもりでいましたが、まあまあいい時間だし、K女史もきっとお疲れだろうし、ここまでにしておくことにしました。登るかどうかK女史に尋ねても、答えは100%わかっているので、黙っておきます。

「あとはもう下るだけだよね!」

登りは心底イヤそうなK女史ですが、下りになるとにこやかになります。

そんなに早く下山したいのでしょうか? やはりK女史はほんとに山が好きなのかと疑問になります。本人は好きだと言ってはおりますが…。

本沢温泉までもどり、テントを撤収して帰ります。

少し下ると、ミドリ池へのわずかな登り返しがあります。登ってる途中でふと振り返ると、K女史はずいぶん後ろを歩いていました。両手を腰に当て、一歩登るごとに体が左右にブレブレです。顔はいつも以上のしかめっ面。

登りちょっとだけですから…。

「下ってるのに登るなんてありえない!!!」

やはりK女史は、山登りはあまりお好きではないようでした。