笹薮!急登!山蛭! – 夫婦山 / 月山
ぼんやりと付いていた踏跡も消えて、笹の藪に呑まれた。方向を確認し、笹をかき分けて進んでいく。
昨夜の雨で笹の葉はぐっしょり濡れていた。レインパンツを履いておくべきだったがもう遅い。太腿から下はすっかり濡れてしまい、水滴が足を伝ってシューズの内部に落ちる。
何匹ものアブにも襲撃され続けている。振り払っても振り払ってもまとわりつき、油断するとすぐに腕や首筋に痛みが走る。
まったくなんてところに来ちまったんだ…。

笹藪を抜けると樹林帯の急斜面だった。立木に掴まり体を持ち上げ、ただひたすら上を目指して登る。
今日ひとつ目の山頂は夫婦山だ。なぜ夫婦山なのか名前の由来は知らない。双耳峰というわけでもない。特に案内板もないが、なんらかの謂れがあるのだろうか。

夫婦山からダム湖へ向かって下る。こちら側の道は比較的まともだった。傾斜もゆるやかだ。その分、歩く距離は長くなるが、濡れた藪漕ぎや植物を掴んでよじ登るよりずっとマシだ。
ダム湖の水位はかなり低かった。小雨の影響だろう。太陽はカンカンと照り付け、風景はギラギラ光っている。静かだ。誰もいない。私の他には鹿の群れしかいない。

このダム湖まで車道が通っているのだが、ダム湖のだいぶ手前で通行止めになっている。ここまで来るには歩くしかないのだ。通行止めゲートの手前に車を停めて夫婦山経由でダム湖まで来たが、車道を歩いて来ることもできる。帰りは車道を歩いて帰るつもりだ。
その前にもうひとつ、ダム湖の反対側の月山にも登る。「がっさん」である。「つきやま」ではない。あの月山と関係があるのかないのかはわからない。
登り始めから藪漕ぎでどうなることかと案じたが、すぐに藪を抜けて登山道が現れた。荒れた急登とはいえ、いちおう道になっている。

月山の山頂を超えて、再びダム湖へ続く道に降りた。ダムに隣接して公園もあるが、人の姿はない。公園は草で覆われ、トイレはシャッターが閉まっていて使えない。もはや放棄されているのだろうか。車道が通行止めになって何年経つのだろう。
なんだか足がもぞもぞする。そういえばずっと違和感があったのだが、薮やら急登やらで必死になっていて気が回らなかった。これはもしや…と思い靴を脱ぐと、靴下には無数のヒルが吸い付いていた。
あーあ、すっかり油断してたよ。どこでやられたのだろう。月山は地面が見えてたし、それらしい雰囲気もなかったから、やはり夫婦山の登りの濡れた笹藪だろうか。だとしたらかなりの長時間、血を吸われ続けていることになる。
靴下に吸い付いた十数匹のヒルを引き剥がした。念のため靴の中を確認すると、やはり何匹ものヒルがいた。靴の隅々やズボンの折り目も入念に駆除した。
左足に多数のヒルがいたということは、当然右足にも多数いる。左右合わせて50匹以上は駆除したはずだ。

こんなにヒルの多い山だとは知らなかった。雨の翌日で気温は高く、ジメジメして絶好のヒル日和ではないか。ゲートの手前には他に車もなく、誰も登って来ないしダム湖にも人はいなかったが、そりゃそうだろうとしか言えない。今の季節に来るところじゃない。
再び歩き始めたが、なんだかまだ足がもぞもぞする。すべて取り切ったはずだが、念のためもう一度靴を脱ぎ、靴下も脱いでみた。
どこから侵入したのだろう。足に直接何匹ものヒルが吸い付いているではないか。足の柔らかい部分に集中して吸い付いて、細長い体をくねらせて蠢いている。それは実におぞましい光景だった。
慌てて引き剥がした。とにかくつまんで引き剥がす。すると指に絡まり、吸い付こうとする。強く手を振って振り落とす。死闘だ。塩が欲しい。
靴下の中にもたくさんヒルがいた。これから血を吸うところだった細いヒルだけではない。靴下を裏返すと、限界まで血を吸って丸々と膨らんだヒルがコロコロと転がり出てくる。おぞましい。
栃木のヒルは丹沢や深南部のヒルと比べると小さくて細い。だから靴下と足の隙間から侵入できたのだろうか。次から次へとヒルが靴下の中に入っていく様子を想像した。おぞまし過ぎる。
左右の足を入念にチェックし、もう一度最後に靴と靴下とズボンもチェックした。もう大丈夫だと思ったが、まだ足がむずむずする。
ヒルは動物に吸い付くと、血が固まらなくなる物質を含んだ唾液を放出する。そうして血を吸い続けるのだ。あまりに集中的にヒルに吸われたため、足に唾液がたっぷり残っているのだろう。そのせいで足がむずむずする。
ヒルに吸われた周囲をぎゅうぎゅう押して、粘液を絞り出した。ああ、早いとこ温泉に行って洗い流したい。

ダム湖から通行止めゲートへ戻るには、長い長いトンネルを抜ける。長らく車が通ることはなく、歩行者も稀であろうこのトンネルに、なぜだか電灯が灯っていた。いったい誰のための電灯なのだろう。
コツコツと足音を立てて薄暗いトンネルを歩いていると、なんだか異世界での死闘を終えて現実世界へと帰っていくようだった。

ヒルに吸われた左右の足には、それから数日が経っても、まだ痒みが残っていた。
2026年7月






