西丹沢周回 その3

明けない夜はない。

たどり着けないピークもない。

目の前のことを確実に、ひとつずつ順番にこなしていけば、いつかは目的の場所に着く。

大切なのはいまだ。いまなにをするかだ。

あんなに激しく降っていた雪も、しだいに弱くなり、やがて周囲が薄明るくなってきた。畔ヶ丸に到着する直前には、陽の光も差し込んできていた。灰色だった重い空は、深い青と淡いオレンジが入り混じった夕暮れの空へと変わっていた。

きれいな空だな。

自分自身と対話しつつ、挫けず焦らず諦めず、ここまで歩いてきたことを祝福してくれているかのような澄んだ空だった。

向かい側の檜洞丸にかかっていた雲も取れて、今朝登った頂が見えてきた。雪もやみ、登山道の凍結ももうない。あとはあの麓まで下るだけだ。

が、まあ、しかし、そんなにすんなりいかせてはくれないよね。山は最後までチャレンジしてくる。

畦ヶ丸に到着したのが午後4時半。麓の駐車場までは2時間半ほどかかる。この時点でわかっていたが、下山の途中で日没を迎えた。尾根を下るならそれほど問題はないけど、下山路は沢筋だ。沢沿いの道はどこでも歩けそうで、どこを歩いたらいいのかわかりづらい。明るい時でもそうなのだから、暗くなったらなおさらやっかいである。

暗闇の中で立ち止まり、念入りに周囲を照らして、人が歩いたと思われる気配を探して進む。道が怪しくなってきたら、確実な場所までもどり、そこでもう一度ヘッドライトで周囲を照らして、進むべき道を探す。

しつこいくらいにたくさんある指導票がとても役に立った。道が怪しくなれば指導票までもどり、別の踏み跡を探して進む。ほんとにこれでいいのかなと不安になってくるころ、闇の中に次の指導票が浮かび上がると、ホッとする。さすが丹沢、親切設計。まあ、これだけたくさん指導票があるってことは、元々わかりづらい登山道なんだってことだが。

ザーザーザーザーと沢の流れる音が絶えず聞こえている。

夜の山を歩くのはあまり好きではない。なにせ景色が見えないから、楽しみもあまりない。しんと静まり返った暗闇の森は気持ちの悪いものだ。ときおりガサッという物音や得体の知れない鳴き声が聴こえると、ビクッとする。でもここでは、耳に入るのは沢の流れる音ばかり。ザーザーザーザーという沢の音が、妙に心を落ち着かせる。

立ち止まり、ヘッドライトの灯りを消してみた。大きくて黒い山塊に取り囲まれ、その上に少しだけ薄い黒色の空。ぽつりぽつりと星が輝く。真っ暗な闇に包まれて、この宇宙にひとりきりのような不思議な感覚。さみしくはなく怖くもなく、でも大いなるものへの怖れで心が震えるような素敵な気持ち。

無事に下山するには、なんどもなんどもしつこいくらいに徒渉をくりかえさなければならない。徒渉地点には丸太の橋がかかっていたので助かった。どちらへ進んでいいのかよくわからなくなったとき、入念に辺りを照らすと、沢にかかった丸太の橋が見つかることが何度もあった。橋がなかったら、徒渉ポイントを見つけるのは困難だっただろう。

徒渉せずに強引に沢筋を下っても下山できるかもしれないが、それはいまやることじゃない。正規の登山道を外れたところには、なにが待っているかわからない。道なき急斜面の突破や、流れの速い沢の徒渉や、滝の高巻きなんかは、暗闇に包まれてやることではない。いますべきは、どんなに時間がかかっても正しい登山道を探し、そこを確実に進むことだけだ。

そんなことを繰り返し、だいぶ下ってきたと思われるころ、また踏み跡が薄くなり怪しくなってきた。もう何度くりかえしたかわからないが、立ち止まり周囲を照らして進むべき道を探す。

すると、少し上流に丸太の橋がかかっているのが見つかった。あぁ、通り過ぎちゃったか。対岸を照らすと、登山道と指導票が見えた。よし、渡っちゃえと、ザブザブと沢の中へ入っていく。が、それほど深くはなくても流れは速いし、川底は滑る。

ダメだダメだ。なにを焦ってるんだ。ちょっとくらい登り返しても、丸太の橋を渡らなくちゃダメだ。ひとつづつ順番に確実に。チャレンジするのはいまじゃない。きちんと登り返し、橋を渡って、正しい登山道を進もう。ここまで来て流されたらアホすぎる。焦らず慌てず確実に進もう。

下るにつれて、沢の両岸が広くなってきた。ゴールはそれほど遠くないはずだ。広い岸はどこを歩いていいのかよくわからない。だんだん踏み跡っぽくなくなってきたなと思っていたら、大きな突堤に行き当たった。これを越えればゴールはすぐのはずだ。

突堤の端の山の斜面は、木につかまってよじ登れば登れそうだった。そこに道がついているようにも見えた。が、丹沢の一般道にそんなルートがあるはずもない。しかたない、だいぶ手前に指導票があったので、そこまでもどることにしよう。

斜面をよく見て、突堤を超える登山道がついてないか探しつつゆっくりもどる。しかし指導票までもどっても正しい道は見つからなかった。あと考えられるのは、ここでこの広い沢を渡るだけだ。試しにそちらへ進んで行くと、広い沢の一部にだけかけられた丸太の橋が、ヘッドライトの灯りに照らされて暗闇の奥に見えた。

ふうぅ。

沢を渡ってからも斜面をよく見て登山道を探しつつ歩いたが、どうやら道はなさそうだ。そしてまた突堤に行き当たってしまった。しかしこんどは、突堤の端にコンクリートの階段が付けられていた。

階段を登り突堤を超えると、急に人の気配が色濃くなったように感じられた。時間的にもそろそろ終わりなはずだ。

ほどなくして、ヘッドライトに照らされて、闇の中に吊橋が浮かび上がった。

やった〜!!これを渡れば人の世だ。

なんという充実感だろう。それは、危険を犯して無事に乗り越えた昂揚感とはちょっと違う。自分のすべきことを考え、それをひとつづつ確実に実行し、そして思い通りの結果を手にした達成感。興奮はしていないが、充実はしている。

目の前の吊橋を渡ってしまうのがもったいなくて立ち止まった。でもまあ、今日のところはこれくらいでいいだろう。登山というこの奥深い趣味を続けている限り、これから先もこの充実感を味わう機会はいくらでもあるはずだ。大いなる宇宙に最大限のリスペクトを込めて、最後の吊橋を渡ろう。

吊橋の張り綱をそっと握りしめた。

ヘッドライトの灯りを消すと、闇の夜空に星が浮かんだ。