日本名山図会

旅と山を愛した江戸の画人谷文晁が、諸国を廻って描いた山の絵を集めた画集、それが日本名山図会です。

諸国の名山を集めるという発想は文晁のオリジナルで、深田久弥の日本百名山の元ネタになったと言われています。

この画集は、発売されるとたちまちベストセラーとなりました。江戸の人たちは、自ら目にすることのない各地の名山の絵を、浮世絵を愛でるように楽しんだようです。

日本名山図会には八十八座の山が収められています。

妙義山も含まれており、この妙義山と岩手山のみ二枚の絵があって、天地人の三巻、全部で90枚の画集です。

収録されている山々は、登山に軸足を置いた現在の名山とは異なり、当時の人々が眺めたり信仰したりした山が中心でした。日本アルプスの山々はほとんど含まれておらず、街道沿いの低山が描かれていたりします。

相馬岳の山頂から金洞山を望んだとき、おー!これは谷文晁だ!と思いました。

しかし、文晁の絵をよく見てみると、山の手前に川が流れ橋がかかっていて、もっと離れたところから眺めた妙義山だということがわかります。

江戸時代の山は登るものではなく、眺めるものであり拝むものであり、信仰の対象でした。文晁が相馬岳に登ったとは考えにくく、妙義山に登ったとしても、それは妙義神社や中ノ嶽神社まででしょう。そこから上は修験者の世界でした。

日本名山図会の妙義山は、おそらく中山道のどこかから望んだ姿だと思われます。

妙義山のもう一枚は石門付近を描いています。

この特徴のある風景は近くを歩けばすぐに見つかるだろうと考えていましたが、少し歩いただけではどこから眺めたのか特定することはできませんでした。

おそらく中ノ嶽神社の駐車場付近だとは思うのですが。

文晁の山の絵も、写生といいつつも、山の特徴を大きくデフォルメして描いていて、写真と違って絵はいいよなと思ったりもするのでした。

日本名山図会の山々が描かれた場所を特定するのは、意外と難しいのかもしれません。手がかりは描かれた絵しかないのです。当時とは風景も変わってしまっています。描かれてるのがどの山かはっきり特定されてない絵もあるくらいです。文晁が描いた地点を探した研究本も出版されてますが、わたくしが見ても、これはちょっと微妙だなと思う場所もあったりします。

山を望む場所を探すには、山が見える天気でなくてはなりませんが、天気いい日は山に登ってしまうので、なかなか日本名山図会探求は進みません。

歳とって登山を引退したら取り掛かろうかな。
それまでは文晁の描いた名山をぱらぱら眺めて過ごします。