登山のルール – 妙義山
クサリを握る手に力が入る。
いつもはふざけてなめた山登りばかりしているが、さすがにここは慎重に行かないと。
両側が切れ落ちた岩稜を進む。万が一にも足を滑らせたら、あとは握ってるクサリが全てだ。手を離してしまえば、何百メートルも墜落してしまう。
汗が噴き出す。この汗はただ暑いからだけではないだろう。イヤな汗だ。
緊張感を強いられる場所が次から次へと現れて、気の休まる暇がない。
そうしていくつもの岩峰を越えていく。
楽しいのは楽しいのだが、なんだかちょっと気持ちに引っかかるものもある。
なぜだろうと考えて、それはコースが整備されすぎてるせいだと気づいた。危険な岩場には頑丈なクサリが設えられている。ペンキマークもやたらと多い。
もちろんここは、整備されてなければフリーで越えるのは不可能だ。完全にクサリに頼り切って、腕の力で登下降しなければならない箇所がいくつもある。間違った方向へ進んでしまうと、命のリスクは格段と増す。
わかってる。わかってるけど、なんだかちょっとこれじゃない感もある。
山に登ってるというよりは、アスレチックコースで遊んでるような、そう、ちょうど甲斐駒ヶ岳の黒戸尾根で感じたような違和感だ。
それでもここが楽しい山なのは間違いない。
いくつもの岩峰を越えていくので、もうどこがどのピークだったかわからなくなっている。つまりそれほど、ピークにこだわりがなくなるほど、楽しい縦走路でもあるのだ。
ツルツルの一枚岩を三連のクサリで数十メートル下降すると、超危険ゾーンはひとまず終了した。
その先は比較的穏やかな道で相馬岳に到着した。
この相馬岳が妙義山の山頂とされている。
相馬岳だけなら、コース取りによっては岩場を全く通過しなくてもピストンできてしまう。
でもそれでいいのだろうか?
その山塊の最も標高が高いところを山頂とするのは、まあわからないでもない。でも、最高地点に立ちさえすれば、その山に登ったことになるという考えには、居心地の悪さを感じてしまう。
もちろん登山には決められたルールはない。審判もいない。だから人がどのような考えのもとで山に登ろうとも、それは自分には関係ない。自分自身として、自分が自分の心に問いかけて、それでいいと思えるかどうかがすべてだ。
自分の心に正直でいなければ、登山を楽しむことは難しい。
妙義山(表妙義)は白雲山、金洞山、金鶏山の三つの山域から成っている。最高峰の相馬岳は白雲山中にあり、ここに登れば妙義山に登ったことになる、というのが標準の考え方である。
しかし相馬岳は、白雲山の核心部を過ぎていったん鞍部まで下り、そこから平凡な登山道を登り返した先のピークである。登った感覚としては、白雲山とは別の独立したピークのようにも感じる。
実際に以前は白雲山と相馬岳は別物と考えられていたようで、それは登山道中にあるそれほど古くない道標から推察することができる。白雲山の核心部を越えると、その先が相馬岳、手前が白雲山という表示になっているのだ。
いまとなっては紛らわしいので、道標の白雲山という表記は白塗りされているが、わりと最近まで、白雲山の山頂は天狗岩だか石碑のあるピークだかだと考えられていたのだろう。それがいつしか、白雲山イコール相馬岳になったのは標高至上主義のせいである。
標高至上主義自体が悪いとは思わない。山は標高が全て、ルートも手段も関係なく、その山の一番高い地点に立ちさえすれば、その山に登ったことになると考えるなら、それはそれでいいと思う。
そしてそれなら、相馬岳に登れば妙義山に登ったことになるならば、丸川峠から大菩薩嶺をピストンしても、大菩薩に登ったことになるのだろうか。
堀切まで降りると、その先は通行止めだった。鷹戻しのハシゴが破損したらしい。
金洞山には登れなくなってしまったが、今日のところはこれでいい。白雲山だけで、かなりの精神力を消耗したからな。
その後は中間道へ下り、大砲岩や石門を見て回った。
ガチの登山者ではなく観光客も来るエリアにしては、なかなか高度感のある場所だった。
さすがは妙義山。
中ノ嶽神社にも立ち寄り、再び中間道で出発地点の妙義神社へと戻った。