S子先輩、富士山へ行く – 前編

いまでは「山頂デザート」とか言っちゃってゆるふわな感じを装ってるS子先輩だが、実は登山歴○十年のベテランであり、沢にも岩にも行っていた岳人なのである。そんなS子先輩だが、いまだ富士山には登ったことがない。

「だって、富士山は登る山じゃなくて見る山でしょ」

いやいやいやいや、そんなことはありません。かの東浦奈良男氏も、富士山は日本一の霊山であり登山する者はすべからく富士山を目指すべしみたいなことをおっしゃってるじゃありませんか。

「うーん、でも標高が…。3200m以上は未知の世界だし…」

そこですか? 登山の難しさは標高ではないって言うじゃないですか。てか、3200mも3700mもたいして変わらないでしょう。高尾山の標高くらいの差じゃないですか。

「3000mまで登るのだってたいへんなんだから…」

いやいやいやいや、五合目まではバスなのだから3000mまでなんて高尾山ですよ。

「もう歳だし…」「衰えが…」となにかと渋るS子先輩に、楽勝ですよ、道はあるしただ登るだけ、一度くらいは行っといた方がいいですよと煽りつづけ、じゃあということで天気の良さげな週末に登ることになった。S子先輩○十年の登山人生で初の富士山だ。

決行日を週末にひかえたある日、S子先輩はこんなことを呟いていた。

「今週末は今年最大の国内イベントが…」

今年最大の国内イベント!おおげさじゃないですか?

「いちおう緊急連絡先を伝えとくね」

いやいやいやいや、富士山ごときで緊急事態なんてならないっしょ。なにせ子供でも老人でも登ってるんですよ。

「酸素缶も買った」

酸素缶!!存在は知ってるけど、買ったって人を初めて見た。そんなの効果あるんですかね??

今年最大の国内イベント決行日は朝から快晴だった。先週先々週と週末の天気が悪く、この日は閉山前の最後の週末だったため、ラストチャンスに登山者が集中して今シーズン最大の混雑になった。始発バスの2時間前から大行列だ。今年最大の国内イベントにふさわしいにぎわいである。

登るのは、一番楽そうという理由で富士宮ルートになった。

五合目からスタートして登っていく。ほらほら余裕でしょとS子先輩に声をかける。だが、おかしい。ぜんぜん登れない。体が重くて足が上がらない。S子先輩がじゃなくて、自分がだ…。

六合目までは順調だったが、そこから六合五勺まででも何度か休憩が必要だった。そしてついに七合目で力尽きた。

ち、ちょっと休憩。寝ます。10分だけ…。

登山道の脇に寝転んで目を閉じた。

このままずっと眠っていたかったが、自分で設定したタイマーのアラーム音で無情にも起こされた。重い体を起こして立ち上がり、再び登り始める。

息が上がり足が止まる。おかしい、これはやっぱりちょっと荷物が重過ぎたか。

お昼ごはんは任せてくださいと張り切って用意したあれこれを詰め込んだザックは、テント泊装備並みの重さになってしまった。でもまあ富士山なんてチョロいしいいかとそのまま来たのだが、やはり重過ぎたのかもしれない。

「歳のせいじゃない?」

いやいやいやいや、そんなことはありません。荷物が重いだけです。

「もう若くないんだから、いつまでも昔と同じなわけないでしょ」

いやいやいやいや、まだまだ若いもんには負けません。ちょっと眠いだけです。

「昨夜はよく寝てたじゃないの…」

えっ、いや、かなり寝不足な感じなんですけど…。

「昨夜も寝る前にビール飲んだよね、そのせいじゃないの?」

それは…あるかもしれません…。

「やめとけばって言っても、どうせ言うこときかないから黙ってた」

そ、そうですね…。絶対に大丈夫大丈夫と言って飲んだと思います…。

「最近は食べて飲んでばっかりでしょ」

はい…。

七合目、八合目、九合目と一合ごとに山小屋がある。だがこの山小屋と山小屋の間が歩ききれない。途中で一回の大休止と数回の小休止を挟まないと無理だ。ほんとはもっと休みたいけど、あまり待たせるのも悪いのでなんとか歩く。あれほどビビってたS子先輩は、やけに調子良さそうだ。

「荷物少し持ってあげようか?」

いえ、大丈夫です。

「酸素缶吸う?」

酸素缶!!そんなバカバカしいもの吸いませんよ…。

「なにか食べたら?」

いえ、おなかへってないので…。

「高山病なんじゃないの?」

いえ、荷物が重いだけです…。

「やっぱり歳のせいじゃない?」

いえ…。

「ストック貸してあげようか?」

それは、はい、お願いします…。

S子先輩の二本のストックのうちの一本を借りた。登るのが少し楽になった。

「でも、なんでストック持ってこないのよ」

いえ、車の中にはあるんですけど、いらないかなって思って…。

「いくら車にあっても山に持ってこなかったら無いのと同じでしょ」

正論オブ正論である。返す言葉がない…。

全然登れないので、気づくと自分が渋滞の先頭になっている。抜かしてもらうという名目で、登山道の端に立ち止まって休む。

ようやく八合目だ。登山道が広くなってる場所を見つけると、倒れ込むようにして寝転んだ。これでは山に登りに来たのか休憩しに来たのかわからない。

ふと下を見ると、ガスが上がってきていた。朝は晴れてた五合目あたりが雲の中だ。急がないと、S子先輩の最初でおそらく最後の富士山がガスの中になってしまう。あまりのんびりしていられない。だが、どうにも体が動かない。ちょっと寝たいからS子先輩には先に登っててもらおう。

「何分寝るの?」

10分。それ以上寝るともう歩きたくなくなりそうなので…。

「10分なら待ってるわよ」

10分と言いつつ13分に設定したアラームが非情にも鳴った。また起きて登るのかぁ…。

「荷物、少し持つよ」

お言葉に甘えることにした。では、重い食材を持ってもらおう。

「重いのはいや」

えっ…。

「水持ってあげるよ、1リットル持てば1キロ軽くなるでしょ」

水の入った1リットルのプラティパスをS子先輩に渡した。

「ふふっ、荷物を持ってあげるなんて、こんな日が来るとは思わなかった。報告しなくちゃ」

S子先輩、めっちゃ嬉しそうである…。

ザックを背負った。あいかわらず重い。ていうか、体感ぜんぜん変わらない。1kgなんて誤差の範囲だったようだ。

つづく