歓喜と祝福の稜線 – 笠ヶ岳

テントから這い出ると、朝の淡い光の中に乗鞍と御嶽が浮かび上がっていた。

今日は良い天気だ。

荷物をまとめて出発だ。

昨日は見えなかった山頂までの稜線が、今ははっきり見えている。

クリヤ谷のダメージから回復していないので、体は重く歩みは遅い。でも、一歩づつ進めば一歩づつ近づいていく。

右手には槍から穂高の稜線、背後には乗鞍に御嶽。

何度も立ち止まって景色を眺めてしまう。

目の前には笠ヶ岳、あとひと登りだ。

山頂は多くの登山者で賑わっていた。テント場は山頂のすぐ下だから、みんな軽装だ。そんなところへ大型ザックを背負い、ふらふらになって、しかも反対側から登場するのは、なんとなく気恥ずかしかった。

笠ヶ岳の山頂からは、槍穂高はもちろん裏銀座まで見通せる。透明な山の朝だ。

山頂を後にして、その先の稜線へ踏み出した。槍まで続く稜線へ。

美しい稜線だった。白と緑と青のコントラストが眩いばかりだ。

振り返ると壮麗な笠ヶ岳。少し歩いて振り返ると、少しだけ角度を変えた姿がそこにある。そのどれもが美しくて、何度も写真に収めてしまう。

こちら側から登るのも悪くないな。

あとは笠新道を下るだけだ。本当は弓折岳まで縦走して下山する予定だったが、昨日テント場まで辿り着かなかった時点で諦めていた。行って行けないことはないが、いまの疲れ具合では辛いばかりだろう。今日もここまで、予定のペースよりだいぶ遅れている。

もう疲れたしさっさと下山したいという気持ちと、名残惜しくいつまでもこの稜線にとどまっていたいという気持ち。その両方が同時に心の中に湧き上がってくる。

相反する心の間で逡巡したが、抜戸岳までは登ることにした。分岐点からすぐだし、ザックをデポして行けばいい。空身ならまだまだ登れる。

縦走路は稜線の西側にトラバースするように付いているので、そこからガレた斜面を登っていった。

稜線に出ると、槍に穂高が目の前だ。太陽に照らされて白く輝いている。

あの凸凹のひとつひとつを登って降りて歩いたことがあるんだなあと感慨に耽る。

山頂に着いたと思っていたが、ほんとうの山頂はまだ先のようだ。もちろんそこまで行く。

あぁ、それにしても麗しい稜線だ。歩いているだけで幸福感に包まれるような、そんな素敵な場所である。

ここまで登ってきてよかったな。

帰りたくなくてダラダラ過ごしたが、そろそろもどるか。やっぱり縦走すればよかったなと思ったけど、それは空身だから思えること。今日の体調では、重量級ザックを背負ったらすぐにうんざりするだろう。UL派の気持ちが少しわかったが、装備よりも重くて嵩張るのは食料と水である。水…。昨日の悪夢がなんだか遠い昔の出来事のようだった。

分岐まで戻り、ザックを背負って、急峻な斜面を杓子平まで下った。

振り返り、最後の姿を目に収める。カールの底の杓子平から望むのが、あの美しい稜線の最後の眺めになる。

また来よう。今日のような青空の下で、あの稜線をどこまでも歩いていきたい。

前を向き、単調な樹林帯の九十九折へと入っていった。

2021年8月