梯子の山と鎖の山 – 石裂山 / 岩山

沢沿いを1時間も登ると梯子が現れた。ここから本格的に登りが始まる。といっても、特別に難しいことはない。濡れた岩は滑って危険だが、梯子で楽々と登れてしまう。

稜線に出たら石裂山へ向かう。石裂山と書いて「おざくやま」と読むらしい。難読山名だ。

山頂へ向かう途中の東剣ノ峰からの下りは長い長い梯子だった。いつまで続くのだろうと思いつつ、先の見えない梯子を後ろ向きになって降りていく。もし梯子がなかったら、やっかいな下りとなっただろう。梯子は簡単で安全だが、チート感が否めない。

はたしてこれは山登りと言えるのだろうか。梯子登りではないのか。岩稜を下るのと梯子を下るのではまったく意味が異なる。そんな釈然としない思いがふつふつと涌き上がる。

石裂山から月山まで歩いた。「がっさん」ではない。「つきやま」だ。標高は890mしかない。

下山して早めの昼ごはんを食べたら、移動してもうひと山登る。

午後の部は、鹿沼市街地近くの岩山だ。岩山というくらいだから岩場の多い山なのだろうが、標高328mしかないのでサラッと登ってくるのにちょうど良さそうだ。地元の小学生が登るような山である。

穏やかな樹林帯を登っていくと最初の岩場が現れた。岩場には鎖も梯子もないが、傾斜はさほどキツくなく、手がかり足がかりも豊富なので、あっけないほど簡単に登れてしまう。

岩場を登り切り、見晴らしの良い場所に出るとベンチがあった。

せっかくなので腰を下ろして眼下の町並みを眺める。

標高は高くないし傾斜も緩やかなのだが、意外とアップダウンがある。最初の岩場を過ぎてからも、いくつもの岩場を超えた。どれも短くて簡単なものばかりで、まったく危険は無いのだが、登って下ってをくり返していると地味に体力を消耗する。

二時間ほどで岩山の山頂に着いた。

あとは下るだけなのだが、疲れてきたのでしばらく休憩した。

岩山の山頂を過ぎると切り立った崖の70m下降が待っている。鎖も梯子もまったくない岩山の中で、ここだけは鎖が設えてある。

鎖場の上部から下を覗き込んでみたが、どこまで続いているのか終わりは見えない。とりあえず、鎖を掴んで下降開始だ。

傾斜も緩く、フリクションも効いているのでなんなく降りられる。

なんだこんなものかと降りていくと一段目の鎖が終わった。

二段目は少し横へトラバースしてから下降する。一段目よりは傾斜があるが、なんということはない。

しかし、降りていくにつれて傾斜がキツくなり、垂直に近づいてきた。数多の登山者が下った岩の表面は、摩耗してツルツルと滑る。鎖を握る手を離したら終わりだ。掴むところがないので、あっけなくグラウンドフォールだ。

思わず鎖を握る手に力が入る。完全に鎖頼りである。もしも鎖が切れたら即死だが、それは考えないことにする。とにかく鎖を信じるしかない。

二段目を下り切り、人ひとりがなんとか立てるほどの小スペースで休息する。

いったいあとどれくらい下らなければならないのだろう。下を見ても終わりは見えない。冷静になって考えてみると、一段はだいたい10mから15m。70m下るということは、まだ半分以上が残っていることになる。

正直、もうここでやめたかった。はっきり言って、下って来たことを後悔した。しかし、ここまで来てしまったら下るしかない。ここから登り返すのも困難だ。こんなの一般ルートじゃないだろと文句も言いたくなるが、いくら文句を言っても自分で下る以外に生還する手立てはない。

どうにも逡巡して先へ進めないのは、三段目の鎖が怖すぎるからだ。いま立っているところから空中に体を投げ出すようにして垂直の鎖を掴みにいかなければならない。足場はないから、腕力頼りで鎖にぶら下がるようになる。

いままでで最も怖かった鎖場はどこだろう。鋸岳の小ギャップは確かに怖かった。だがあれは、長いとはいえ一段だ。足がかりも多い。鎖を掴んでしまえば、基部まで降りるのにさほど苦労はしない。石鎚山の直登も怖かった。あそこは完全に鎖頼りになってしまう。だが、丸い輪っかの連なる鎖のコツさえ掴めば、攻略するのは造作ない。妙義山も手を離せば墜落するのは間違いないが、ひとつひとつの鎖は短く、さほど腕力を消耗しないので集中していれば問題ない。

とすれば、この岩山が人生最高に怖い岩場ということになる。

意を決して体を空中に投げ出し、鎖を掴みにいった。

鎖を掴み、腕を伸ばし、体を倒して、足裏を岩面にぴたりと付ける。足がかりが無いので、懸垂下降のようにして下っていく。懸垂下降と違うのは、確保されてないのと、掴んでいるのがロープではなく鎖だという点だ。

ロープと違って鎖は握りしめるのに適していない。ずっと鎖を強く握っていたので、握力が無くなってきた。しかし手が痛いとか言ってられない。とにかく離したら終わりなのだ。

三段目を降り切って四段目を目にしたときに愕然とした。これは、さらに恐怖ではないか。鎖を掴んですぐ下が、岩が飛び出していてオーバーハングしてるのだ。あれでは足が着かないから、鎖にぶら下がるようになってしまう。完全に腕力頼りだが、腕力も握力も売り切れ寸前である。

汗が噴き出す。暑いからだけではない。いやな汗だ。全身から噴き出した汗が、ポタリポタリと地面に落ちる。心臓の鼓動が大きくなり、息が荒くなってきた。

いったい何をやっているのだろう。自ら望んで来たはずなのに、どうしてこんなことになってるのだろう? 楽しいのか? いや、決して楽しくはない。じゃあ、なんで…。

いまは余計なことを考えるのはよそう。とにかく目の前の岩場に集中するんだ。とにかく行くしかない。おれはできる、おれはできる、と自分に言い聞かせる。

鎖を掴み、オーバーハングした岩を超えた。鎖に宙づりになって足をばたつかせる。オーバーハングの下は予想通り摩耗した垂直の岩面だった。足がかからないので腕の力だけでさらに下る。

なんとか足裏を岩面に着けて懸垂下降の姿勢を取った。ようやく一息つけるが、じっとしていても腕の力を消耗するばかりだ。手のひらの痛みを堪えて、そろりそろりと降りていく。下っても下ってもなかなか終わらない。ここまでの鎖よりも長い。

四段目を下り終えた時には、どっと疲れが押し寄せてきた。

そして、まだ先に五段目があることを知り、その場にへたり込みそうになった。

無事に下山口まで降りてきたときには、肉体的にも精神的にも極度に疲弊していた。何事もなくて良かったと心底ホッとした。

里の風景が心に染みた。

2021年5月