九月の五日間 その3 – 聖岳

三日目。
この日が、今回の縦走中で最も厳しい行程になる。
やり切るには、一にも二にも早出することだ。

早朝はなかなかシュラフから出られないのが常である。下界でも、目が覚めてから起き上がるまでに、いつもずいぶんな時間がかかってしまう。
寒いとよけいにシュラフから出る気になれないので、いつもはあまり着ることのないダウンの上下を着てシュラフに潜り込んだ。
極度の暑がりで、ダウンなど着なくても寝れるのだが、早朝はさすがに少々寒い。寒くて眠いとシュラフから出るのも億劫になるので、着たまま寝ておくことにしたのだ。
寝るときに暑すぎないよう、シュラフは夏用のペラペラのにしてある。

こうして、自分的には珍しく暗いうちから準備をし、手順通りにパッキングをすませ、出発したのは午前四時少し前であった。

よし。遅くとも四時には出発したいと思っていたのだ。
これで第一チェックポイントはクリアした。

大沢岳、中盛丸山、兎岳と三つの2800m峰を超えてから、3000m峰の聖岳に登り、さらに2800m峰の上河内岳を超えて茶臼小屋まで行く。登り返しがたっぷりあるはずだ。

タフな一日になるだろう。

まずは百閒洞山の家から少し下り、沢を渡ってから高度を上げて稜線に出る。稜線まで標高差300m弱の登りだ。
暗闇の中、ヘッドライトの灯りを頼りに進む。まだ体が温まってなく、ペースは上がらない。

稜線に出て、大沢岳のピークを踏みに行った。
いくら急いでいても、踏めるピークは踏んでいく。飛ばすと、なんだか負けた気がする。

東の空が明るくなってきた。今日もいい一日になりそうだ。

昨日歩いた赤石岳に悪沢岳が見えている。
前方には、これから超える中盛丸山に兎岳に聖岳が聳えている。

宇宙と一体となったこの時間。夜明けの稜線は最高の贅沢。

中盛丸山に登り、さらに先の兎岳を目指す。
登って下ってまた登る。想像通りの手強い稜線。

しっかり整備された登山道が続くので、技術的に難しい場所はない。
しかし、体力は相当使う。縦走三日目ともなればなおさらだ。ひたすらタフさが求められる。

ようやく登ったピークは小兎岳で、兎岳はまだ先であった。
やはりなかなか手強いな。

進む先には聖岳が控えている。
周りの2800m峰が雑魚に見えるほどの、大きくて堂々とした山容だ。その姿には畏敬の念を禁じ得ない。

あれ、超えるんだよな…。

兎岳から眺めた聖岳への稜線は凶悪であった。相当厳しい登り返しが待っている。実にラスボス感のある聖岳の雄姿だ。

鞍部に下り、見えていた通りのシビれる登りを登った。想像していた以上の急登が続く。
焦っても進まない。ここは一歩一歩着実に登るしかない。登り続けていれば、いつかはたどり着けるのだから。

左手に見上げていた赤石岳の頂が、気づけば同じくらいの高さになっていた。
それと同時に急登が終わり、なだらかな稜線の先には聖岳の山頂が見えた。
よし。あとひと息。

聖岳の山頂からは、昨日登った山々に今朝越えてきた山々、そしてこれから歩く山々がぐるっと見渡せた。

休む間も無く奥聖岳へ向かう。
ガスが上がって来そうなので、その前にあちらのピークも踏んでおきたい。
前聖岳と呼ばれる3013mのピークが聖岳の山頂とされているが、その先の2973mの奥聖岳にもいちおうは行っておく。
さらに先には東聖岳があるが、聖岳東尾根はまたの機会に取っておくことにしよう。

奥聖まで行き前聖にもどった時には、ガスが上がって周囲の山々は見えなくなっていた。
まだ頭上には青空が広がっているが、まもなくここも真っ白になるだろう。

休まず進めってことだな。今日の行程は長いのだから。
ほんと自分が山頂にいる間だけ、南アルプスの空は晴れ、周囲の山々を見せてくれる。

前聖からのザレた急斜面を一気に駆け下った。
テント装備では、登りでほとんど時間を稼げないので、下りで巻くしかないのだ。

下り始めてすぐに、周囲はガスに包まれた。
滑らないようバランスをとり、太ももとふくらはぎとヒザ周りの筋肉を使ってしっかり体を支え、小聖岳まで駆け下った。
これで多少の余裕ができたはずだ。聖平小屋での大休止もできそうだ。

聖岳から一時間半ほど下って聖平小屋に着いた。

ここでのお楽しみは500円カレー。
井川観光協会が運営するこの聖平小屋では、500円という、山の中では他にありえない低価格でカレーを食べさせてくれるのだ。
有名なウェルカムフルーツポンチのサービスもあるし、とても素敵な山小屋である。
テント泊登山者にも分け隔てなく優しくしてくれるという評判もよく聞く(ということはつまり、そうではない山小屋が実に多いということでもある)
営業小屋は全て避難小屋になってしまえばいいなんて書いたけど、こんな山小屋にはずっと残ってもらいたいものである。

カレーを食べ終えて時計を見たら、12時半であった。

よし。ここを午後1時に発つのがリミットと考えていたから、充分な時間の余裕がある。
第二チェックポイントも無事通過だ。

本来なら、聖平小屋で一泊するのが普通の行程だと思うが、今回はもうひとがんばりして茶臼小屋まで進む。
そのために朝から、いや昨夜から、いやいや何週間も前から計画的に進めてきたのだ。

ずっとカラのまま持ってきた400mlの小型ナルゲンボトルを湧き水でいっぱいにし、小さじ二杯ほどのチアの実を混ぜた。
いつでも取り出せるよう、ナルゲンはザックの脇ポケットへ差しておく。

準備はできた。聖平から茶臼小屋まで、あと四時間。