九月の五日間 その2 – 悪沢岳 / 赤石岳

二日目の朝。
漆黒の闇が、濃い紺色に変わり始めたころ出発。

小屋から少し登れば森林限界を超える。
雲海に浮かぶ富士の頂が見える。今日も天気は上々だ。

ひと登りすると目に飛び込んでくる南部の山並み。
赤石、聖、上河内。あれら全てを超えて、さらに先まで歩くのだ。

期待感と畏怖の念で心が震える。

まずは、目の前の登りだ。稜線に出るまでは、ひたすら登りが続く。

一時間ほど登って、千枚岳の山頂に着いた。
今回の縦走での初めてのピークである。

ようやく着いた。ここからが本番。
つらい登り坂はただつらいだけのものじゃない。登り切った者には必ず、見たことのない風景を見せてくれる。

さらに先へ。丸山から悪沢岳を目指す。

ぽっこり緩やかな丸山と、その先の岩がちな悪沢岳。ようやく3000mを超えてきた。

北側へ目をやれば、塩見に仙丈、農鳥に間ノ岳、さらに奥には甲斐駒も見える。
あれら全ての頂に立ったことがあるんだ。そう考えるとすごいな。

悪沢からいったん下り、荒川中岳へと登り返す。

高山の稜線というのは、晴れた日の高山の稜線を歩くのは、なんて気持ちがいいんだろう。

空は晴れ空気は澄んで、重い荷物も多少は軽く感じる。

中岳から前岳へ。緩やかな稜線を進む。

中岳と前岳はすぐ近くでもあり、その間にほとんど起伏もなく、ひと続きの頂のように見える。
しかし悪沢は、荒川東岳という正式名称が付いてはいるが、間に多少の登り返しもあり、緩やかな中岳前岳とは異なって岩がちでもあり、まるで別の山のようだ。

まあ、地形図を見れば、明らかに同じ山の二つのピークなのだけれど。

ここから荒川小屋までは大きく下る。

およそ400mほど高度を下げ、そこから赤石岳まで500m以上登る。
やれやれという感じだが、登り返しが大きいのは山が大きい証拠。これが南アルプス南部の魅力なのだからしかたがない。

荒川小屋では有名な荒川カレーを食べた。
昨日は山小屋でお金を払って飲み食いするなんて…とか言っておきながら。
いいのだ。原理主義ではなく原則主義なのだから。
原則的には山の中でお金を払って飲み食いしないけど、ここまで来なければ食べられないカレーなのだから。せっかくだから食べておく。

じっくり煮込まれた評判通りのおいしいカレーだった。
メニューには荒川丼という謎の料理もあった。次回はそれを食べてみよう。

荒川小屋から赤石岳へは、再びひたすら登りである。
エネルギーも補給したことだし、一気に登ってしまいたい。

早朝はすっきり晴れていたが、日が昇るにつれて雲も上がってきた。赤石岳の山頂もガスに巻かれている。
晴れろ晴れろと念じながら、荒涼とした稜線を登り続ける。

あそこまで登れば山頂だと思っていたのは小赤石岳であった。
ほんとの山頂は、さらに一時間ほど先のようだ。

相変わらず山頂にはガスがかかっている。
しかし、心なしかガスが薄くなってきた気もする。
全く見えなかった山頂が、ときおり姿を現してくれる。

ようやくにして赤石岳の山頂へ。

到着した時には青空が広がっていた。うん、これならじゅうぶん。
先ほど歩いた悪沢岳も、明日歩く聖岳もしっかり見えている。

ついに来た。南アルプスの盟主赤石岳。ここが南アルプスの震源地なのだ。
すっかり定着している南アルプスという呼び名だが、正式名称は赤石山脈である。

英語で書かれた日本の山についてのウェブサイトを見ていたら、そこにはSouthern Alpsなどという表記は当然のようになく、Akaishi Mountainsと記されていた。
同様に、Northern AlpsもCentral Alpsもなく、Hida Mountains、Kiso Mountainsとなっていて、なんだか嬉しくなったことを思い出した。

赤石岳からのザレた急斜面を慎重に降りていく。

下るにしたがって、またガスが出始め、百閒平に着く頃には、赤石岳の姿はすっかり見えなくなっていた。
まさに山頂付近にいた間だけガスが切れてくれたのだ。

やはり天も味方してくれている。今回の山行が首尾よく終わることを確信した。

二日目の夜は百閒洞山の家で宿営した。

この日は山小屋の処理能力を大きく超える宿泊客が訪れたようで、テントの受付をすませるのに一時間以上もかかってしまった。
小屋泊もテント泊も売店での買い物も、同じひとつの列で順番に処理している。わたくしの前に並んでいた女性は、ビールを買うのに一時間以上も並んでいた。

赤石岳避難小屋に泊まればよかったかなと、一瞬だけ思った。山頂直下のとても気持ちのいい場所にある避難小屋だったから。
しかし、この日の赤石岳避難小屋は、定員の三倍以上が宿泊したらしい。それに、あそこで終わりにしてしまったら、この先は予定通り進まなくなる。
百閒洞山の家も定員の二倍以上の宿泊客だが、テント組はさほど多くないようで、まだまだじゅうぶん張る余地があった。

混雑のあおりを食ってしまったことがもうひとつ。
この日の夕食の提供は小屋泊の方々のみであり、テント泊者はお断りであった。
あぁ、山小屋で食べるトンカツ定食を楽しみにして、ここまでがんばって来たのに…。

しかたがない。小屋の食事を楽しみにはしても、小屋の食事を当てにはしていない。
いちおうこの日の食事も用意はしてある。

いつも通りの決められた手順で食事をの支度を始めた。

まずはお湯を沸かして二杯分のコーヒーを淹れる。
これは今夜飲むのではない。明日の朝と行動中のコーヒーだ。
朝はお湯を沸かしたりせず、できるだけ素早く出発したいので、夜のうちに淹れておくのだ。夕食後だとめんどくさくなるから、最初に淹れることにしている。

コーヒー用に小型のテルモスを用意してある。
たとえテルモスに入れておいても、翌朝にはすっかり冷めているが、そんなことは大きな問題ではない。
とりあえず飲めればいいのだ。それよりも出発前の時間の節約の方が重要である。

今回はドリップタイプではなく、スティックタイプのコーヒーを持ってきた。
ドリップタイプは淹れるのがめんどくさいし、ゴミも重くなる。スティックタイプなら、粉をお湯で溶かせばできあがり。この際、味は二の次だ。

コーヒーを淹れたら米を炊く。
アルファ米ではなく、普通の生米だ。
アルファ米は軽くておいしくていいのだが、なんといっても値段が高過ぎる。一食で二袋食べたら、それだけで500円以上かかる。そんな高級米には手が出ない。

軽くて安い米といえば焼き米があるが、たいていのものの味には文句を言わない自分でも、あれはかなり食べづらかった。一度食べて以来ずっと、台所の棚にしまったままである。
Amazonで焼き米を注文したさいに、この商品を買った人はこんな商品も買っていますのところには、ULハイク入門だのなんだのって本がずらずら並んでたので、ULの人たちには焼き米派が多いのかもしれない。
彼らにとっては、味ではなく軽いことが最重要である。

家で食べるのは玄米だが、山だと玄米はいまいちうまく炊けないので、今回は無洗米にした。
米は、テントを張ったらすぐに分量を量り、水に浸してある。
二食で二合半の計算で持ってきたが、山ではなぜか少食になるようで、炊くのは一合半にしておいた。

米が炊けたらおかずを作る。
一泊だけなら生ものでもいいが、二泊以上だとそうもいかない。
この日のメニューは、そして明日も明後日もだが、乾燥野菜と大豆グルテンのカレーだ。
水に浸しておいた自家製乾燥野菜と大豆グルテンを茹でて、塩とスパイスを入れればできあがり。

味は…山で食べてもあまりおいしくはない。
しかし、レトルトに比べて軽いし、ゴミもでない。それに添加物フリーでナチュラルでもある。

できあがったら、米とおかずを半分づつ弁当箱に詰める。
これが明日の行動中の食事になる。早朝から行動するので、だいたい朝八時か九時には弁当タイムとなる。
その後は、お腹が減ったらフルーツグラノーラをポリポリ食べてしのぐ。

食事ができたらパッキングだ。出発前にちんたらやってる時間は惜しい。
とにかく寝る前にテントとシュラフとヘッドライト以外はすべて片付けてしまう。
このためにパッキングも工夫した。
二気室のザックの上部に全てを詰め込み、食事がすんだら食器類を一番上に入れる。

翌朝はテントとシュラフとダウンジャケットを、二気室の下部に入れればパッキング完了。

準備万端。明日を待つ。