九月の五日間 その4 – 上河内岳 / 茶臼岳

南アルプス南部に、南岳という山がある。

山好きな人々でも、この山を知っている人は、それほど多くはないだろう。
かくいう自分も、全く注目していない山であった。

主要縦走路中にあるこのピークの標高は2702m。それは、日本で90番目に高い白山と同じ標高である。
上河内岳の付属峰とされているため、日本の山の標高順表には載ってないが、唐松岳や蝶ヶ岳、爺ヶ岳よりも高いのである。

これからそのピークを超える。

テント泊装備を背負って、三つの2800m峰とひとつの3000m峰に登った後である。辛くないわけがない。
当然ではあるが、聖平からはひたすら登りである。

足が上がらずペースが落ちてきた。
ザックの脇ポケットに手を突っ込み、ナルゲンボトルを取り出した。チアの実入りの水が入ったナルゲンボトルである。
ひとくち飲んだ。

イスキアテ。
山岳地帯を駆け抜けるメキシコの少数民族タラウマラ族に伝わるリカバリードリンクだ。
正式にはライムの搾り汁も入れるのだが、山で生ライムはなかなか持ち歩かない。ライムを搾るのは飲みやすさ的な理由からで、効果に差はないと思う。

一般的には、疲れたらアミノ酸などを補給するサプリメントを取るのだろう。
確かにあれは効く。効きすぎるくらいに効く。飲んだ瞬間から体が動く。力強く足が前に出て、急にペースアップする。
しかし効果は長く続かない。30分もすると効果は薄れ、反動で怠さがやってくる。これを解消するには、再びサプリメントを飲むしかない。
効果が切れたら摂取の繰り返し。これじゃあ覚醒剤と同じではないか。

クスリは飲まない。大自然の中を歩くのに化学薬品の力を借りるのは違和感がある。そもそも、西洋薬は毒だと信じてもいる。
ケミカル食品で溢れた下界で生活しているのだ。山の中ではせめて、そういったものから離れたい。

もうひとくち、さらにひとくち飲んだ。

ゴマ粒より小さいチアの実は、水に浸すと周りにゼラチン状の膜ができる。
それは…あたかもカエルの卵を飲んでいるかのようだ。
味は特別悪くはない。美味しくもないけど、まずくもない。

飲んでも、ケミカル薬剤のような劇的な反応があるわけではない。効いてるのか効いてないのか定かではない程度だ。
しかし、飲むと元気が出てくる。楽しくなってきて、さあ登るぞって気持ちになる。
これはおそらく、体が回復した影響が心理に現れているのだろう。チアの実に向精神的な成分はないはずだ。
劇的なパワーアップはないが、緩やかに穏やかに回復しているのだ。

これを飲むのは年に数回。体と心の限界を超えて、でもまだがんばらなければならない時だけにしている。
タラウマラの教えでも、一歩も足を上げることができず、もうこれ以上は進めないと思ったときに飲めとされている。

厳しい登りであった。
イスキアテの力を借りて、南岳を超えた。

さらに先へ、道は続く。

上河内岳の山頂は縦走路から外れている。
ガスガスでなにも見えないのはわかっていたが、ザックをデポして山頂へ向かった。

ここまで好天に恵まれていたが、ついにひとつ目のガスに巻かれた山頂となってしまった。

まだかまだかと思いつつ歩き続け、上河内岳から一時間半ほどで茶臼小屋に到着した。
すっかり疲れて、テントを張る気力もない。

しばらくぼおっとしていたが、俄然やる気が出てきた。なんと、小屋閉め特価でビール二本で500円だというのだ。
さっさとテントを張り、ビールを飲もう。
下界で売ってるパッケージ商品を山の上で買うのは…などど書いたが、そんなことはどうでもいい。主義主張にはこだわらない主義なのだ。
山の上では細かいことなど気にしていられない。なにせ二本で500円なのだから。

ビールですっかり機嫌も良くなり、三日目の夜が更けていった。

四日目。
この日は茶臼小屋から光岳をピストンする。

シルバーウィークは南アルプス南部を歩くと聞きつけたS子先輩からお達しがあった。

「光岳まで行くこと!」

元々の予定では、三日目聖平小屋泊、四日目茶臼小屋泊で下山であった。
これだと四日目がかなり短いが、二日目にどこまでいけるかわからないし、時間に余裕を持たせておこうと考えたのだ。

光岳までは行けないですよ、と答えたのだが、
「行けるよ行ける、絶対行ける。行きなさい!」とS子先輩は譲らない。

S子先輩が高校生の時に登り、山頂の立木に山名表示板を掛けてきた光岳。その山名表示板がまだあるか確かめてこいという。
S子先輩が高校生の頃といえば、何十年も前である。そんな前世紀の遺物がまだ残っているとは思えない。

その後も、顔を合わせるたびに「光岳まで行くように!」と、しつこいS子先輩。
こうなると行かないわけにはいかなくなってくる。
各日の予定がいっぱいいっぱいにはなるが、行って行けない距離ではない。
それに、自分自身が光岳まで行ってみたくもある。どうせなら、主要な山々を全て縦走したいではないか。

行くか。前世紀の遺物を探索してこよう。
これで、やっぱり疲れて辿り着けませんでしたと報告するわけにはいかない。
完遂するには周到な計画と確実な実行力が必要になる。

ここまで完全に予定通りきた。この先はもう失敗はないだろう。
光岳ピストンはテント装備を置いていけるので、距離は長いが楽に行けるはずだ。

茶臼岳まで登ると、早朝の透明な空気の中に越えてきた山々が浮かんでいた。

二日目に歩いた荒川岳と赤石岳、昨日越えた兎岳に聖岳。そして山頂でガスに巻かれた上河内岳も。

上河内岳、あんな姿だったんだ。すっきりとしてかっこいい。

もし昨日あれが見えていたら、越える勇気を持てただろうか。
疲れた体であの大きな山を見上げたら、聖平で終わりにしてしまったかもしれない。

やっぱり天は味方してくれているんだ。

上河内岳なら、茶臼小屋に泊まって一泊二日で登ることもできる。近いうちにまた来ればいい。

進む先に目をやれば、山並みの奥に目指す光岳が待っていた。

軽い荷物で軽快に飛ばしていく。

朝露で濡れたハイマツを漕ぎ、びしょびしょになって仁田岳に登った。
樹林帯を進んで、易老岳で弁当を食べた。
ガレ沢を直登し、気持ちよく開けた草原に出た。

一歩一歩着実に、旅の終わりへ近づいていく。

時間はだいぶ巻いている。
イザルヶ岳で大休止して、青い空と澄んだ空気をこれでもかというくらい堪能した。

さあ行こう。ゴールはもう目の前だ。