裏銀座の五日間 day3

空が青い。雲ひとつない。三俣蓮華岳の頂が紅色に染まっている。

縦走三日目にして最高の朝を迎えたようだ。

この日の北アルプスは、空一面の真っ赤な朝焼けと眼下に広がる雄大な雲海を堪能できた…というのは後から知った。

そのころは、谷に刻まれた黒部川源流ルートを歩いていた。周囲は山に囲まれ、特に東側には大きな鷲羽岳がある。見えるのは頭の上の空ばかりだ。

今日はいい一日になるなという予感と、この時刻に稜線にいない愚かしさを共に噛み締めながら、前日に下った道を登る。

鷲羽岳への分岐を超えて、ここからは新しい道。いくつ目かの小ピークを超えると、朝日に輝く緑の稜線が広がっていた。昨日の真っ白とは大違い。こんな日もあるから山はやめられない。来てよかったなと心から思える瞬間だ。

「景色は見たいなって思うけどさ…」

山登りなんて絶対にしたくないという取引先担当者の言葉だ。

「景色は見たいから、山頂までヘリコプターで連れてってくれるなら行きたい。それかロープウェイで」

確かに景色が見えるかどうかは重要だ。どうせ登るなら、天気いい日に登りたい。しかし、景色を見ることだけが登山の目的かといえば、そうでもないだろう。快晴の山頂にヘリコプターで運ばれても、これはちょっと違うんじゃないかと思うのはまちがいない。

では、登山の「目的」ってなんだろう。目的なんて必要ない、登りたいから登るんだ的な言葉はしばしば耳にする。でもじゃあ、なぜ登りたいと思うんだろう。登る楽しみってのはどこにあるんだろう。

鷲羽岳が綺麗だ。槍から穂高の稜線もよく見えている。立ち止まり立ち止まり、何枚も写真を撮ってしまう。そういえば昨日までは、あまり写真を撮ってない。

前日は全く見えなかった水晶岳への稜線も麗しい。登りたいのはやまやまだし、寄り道してもたいした時間がかかるわけではないが、北アルプス対策で立てた予定通りに先へ進むことにする。ガスが上がってくる前になるべく歩いておきたいってのもある。

こらから歩く縦走路が見渡せるってのはやっぱりいいものだ。

いくつかのピークを超えた先の丸っこい山が野口五郎岳だろう。とりあえずあそこまで、天気が崩れる前に到着したい。

「山頂からの景色ってのは、やっぱりすごいんだろうね。景色は見たいなって思うんだけどね」

取引先の担当者は、「山頂からの景色」にこだわる。しかし景色なんて、山頂と山頂の手前でそんなに変わるものではない。「山頂からの景色」だけに価値があるわけでもない。確かに景色が見えたほうがいいが、景色はただ「見る」だけのものでもない。もしも景色が見えなくても、それはそれで楽しめる。

そんなことを噛み砕いて話してみたが、会話はまったく噛み合わなかった。

森林限界を超えた稜線の縦走路を快晴の空の下で歩くのは、なんとも気持ちがいいものだ。この風景のなかに浸り歩く時間のすべてが貴重なものだと感じる。

野口五郎岳への最後の登りに取りかかった。ザレた斜面につけられたつづら折りの道を登っていく。標高が高く、すぐに息が切れる。ゆっくりとしか登れない。体が重い。

いったいなんでこんなことしてるんだろう。山に登っていると、ときどきそんな気持ちになる。わざわざ遠くまで来て、汗をかいて、キツイ思いをして…

「登ったら達成感あるんだろうなって思うんだけどね」
「やっぱり達成感があるから登るんでしょ?」

取引先担当者はなんども「達成感」という言葉を口にした。その言葉になんとも居心地の悪さを感じたが、それをうまく説明することはできなかった。

達成感…感じるだろうか。山頂に到着したときの気持ちは、それとはちょっと違う気がする。もっとこう、やれやれとか、やっと着いたとか、これでしばらく登りはないなとか、そんな気分だ。

登山はどこから入ってどこを通りどこへ抜けるか、そのすべてである。山頂は確かに目的地のひとつではあるが、単なる通過点でもある。必ず経由しなければならないわけでもない。

広々とした野口五郎岳の山頂で、やれやれと腰を下ろしてそんなことを考えた。

だいぶ雲が上がってきた。北アルプスの峰々は、しだいに見えなくなりつつある。まもなくここもガスに巻かれるだろう。先を急ぐことにしよう。

本日の宿泊地の烏帽子小屋まで、あと三時間。

つづく