奥多摩で栗拾い

最近あまり登山に熱が入らない。飽きたというわけではないのだが、かつてのようには山に行かなくなってしまった。それには理由がある。

理由その1:登りたい山が無い

正確に言えば無いわけではない、というかたくさんある。しかし週末の二日間で登れるような山はあらかた登ってしまった。同じ山に何度も登るタイプの登山者もいるが、私はできるだけ違うところへ行きたいタイプなのだ。

理由その2:街は楽しいことであふれている

ぶらぶら散歩したり、美味しいものを食べたり、お酒を飲んだりと、休日を気ままに過ごすのは最高だ。別に出かけなくても、読むべき本はいくらでも積んであるし、配信で好きなだけ映画も見られる。料理も好きなので、自分で作って自分で飲み食いするだけで楽しい。

理由その1と理由その2が複合した結果として、山から足が遠のいてしまうのだった。

しかし!これではいかん!山の体力をつけるには山に登るのが一番である。毎週ハードに登山してたころは、今よりずっと登れていた。走ったり筋トレしたりといったトレーニングは退屈すぎてやる気にならないので、山をサボるととたんに山力が低下してしまう。登山を一週サボれば自分でわかる、二週サボれば同行者にもわかる、三週サボったら山で一番遅いやつになる。すでに二週間サボってしまった。今週こそはどこかへ登らねばならない。

だが、行く先も思いつかないので奥多摩に来た、近いしさ。奥多摩じゃあ何度も登った山ばかりだけどしかたない。朝はなかなか起きれず、出発が遅くなってしまった。やる気が出なくてダラダラしてたせいだ。でもまあいちおう来た。ダルいなあと思いつつ出発する。

足が重い、なぜなら重登山靴を履いてきたからだ。しばらく軽い靴しか履いてなかったが、それだといきなりテント泊装備を背負って縦走するのもキツいだろうと思い、トレーニングの一環としてあえて履いてきたのだ。

それにしても重い。登山靴を投げ捨てたくなる。もちろん体力も落ちてるので、登っても登ってもぜんぜん進まない。

うんざりしつつ2時間登った。ふと足元を見ると栗が落ちていた。イガが割れて実が出ている。実が残ってるのは珍しい。だいたいは熊に食べられてイガしか落ちてない。

その先にも栗が落ちていた。もちろん実もある。その先にもその先にもその先にも落ちていた。奥多摩から熊がいなくなったってわけはない。おそらく今年は栗が豊作で深山にじゅうぶんな食料があるので、こんな麓近くまで出てくる必要が無いのだろう。

栗をひとつ拾った。甘栗と比べると山栗は小ぶりだ。形は良く、虫食いも無い。

もうひとつ拾った。掌の中でカチカチ鳴らしながら歩く。

それにしてもやたらと落ちてるじゃないか。せっかくだからもっと拾っていくか。ザックからレジ袋を取り出して、拾った栗を入れながら登る。

やがて、一面に栗が落ちている栗大散乱地帯に突入した。栗栗栗栗栗栗栗栗、無数の栗。登山道周辺だけでもかなりの数だ。谷へ向かう斜面にはどこまでも栗の絨毯が続いている。

これは拾うしかない。小さいのはやめて、手頃な大きさのだけ拾っていく。それでもいくらでも拾えてしまう。キリがないので途中でやめたが、いまなら無限に栗拾いができる。

レジ袋いっぱいの栗を手に入れた。

さて、登山だ。山頂まではまだかなりある。栗を拾って満足したのでもう下山してもいいかなとも思ったが、ここで終わりはいくらなんでも中途半端だ。いちおう途中の山までは行っておくことにした。

栗大散乱地帯を抜けると、もう栗を見なくなった。雨が降ってきた、というか山にかかっていた雲の中に入ったようで、霧雨のような細かい雨が空気中を漂っている。

中間地点の、ピークとも言えないような平坦な山頂に着いた。数人の登山者がやってきたが、写真を撮ったらすぐに先へと進んでいった。みんな上まで登るんだ。ご苦労さまなことである。

上まで登ったら食べるつもりで持ってきた弁当を食べた。もうここで終わりでいいや。つかれたし雨も降ってるし栗もたくさん手に入れたし、早く帰って栗を茹でよう。

サクサクと下山した。

帰宅して栗を洗い、いくつか剥いて揚げ栗にした。揚げると渋皮はパラパラと簡単にめくれる。ほくほくして甘味はほとんどない。木の実の栄養が凝縮したような、素朴で滋味深い味がする。

もっとたくさん剥けばよかった。めんどうなのと早く食べたいのとで、ほんの少ししか剥かなかったのだ。

残りはまだたっぷりある。冷凍庫に保管して少しづつ食べよう。

登山のトレーニングにはあまりならなかったが、これはこれで良い休日だった。

2024年10月