遥かなる頂、笹原の海、樹林の迷路 – 錫ヶ岳
湯元温泉からのガレて急な登山道を上がり、前白根山に着いた。ここから望む五色沼越しの白根山は、絵葉書かカレンダーのような眺めだ。
だが、今日は白根山へは行かない。これから進む先に目をやる。
手前の綺麗な三角錐が白根隠山だな。あそこまでは1時間もあれば行けそうだ。で、今日の最終目的地の錫ヶ岳はどこだろう。
あ、あれか…。遠い…。
連なる山脈のずっと先、一番奥が錫ヶ岳だ。あんなに遠くまで歩くのか。ここまで登るのにも3時間かかった。いったい帰りは何時になるだろう…。
オフィシャルな登山道を外れて、バリエーションに入った。思ったよりもずっとしっかりしたトレイルだ。かつては登山道だったものが廃道になったのだろうか。
尾根は緩やかで歩きやすい。右手には白根山、左手には中禅寺湖に男体山、二つの名山の間を優雅に歩いていく。
白根隠山までは、前白根山からちょうど1時間だった。
ここからの白根山の眺めも素晴らしい。人も来ないし、良い山頂だ。
白根隠山を過ぎるとトレイルは消えた。踏跡は無いか、あっても極薄いものだけである。
崩れそうな岩場は迂回して、ザレた斜面の歩けそうなところを選んで下る。バリエーションらしいルートが始まった。どこをどう進むかは自分で判断しなければならない。
笹原は広く、まるで海のようだった。トレイルのように見えるのは獣道で、辿っていくと尾根を外れて谷に下ってしまう。なるべく尾根通しで笹をかき分けて進む。笹藪は腰からせいぜい胸くらいなので見通しは良い。晴れているからなんともないが、ガスに巻かれるとやっかいだろう。
笹原を泳ぎ切り2296mピークを超えると、いったん大きく下って樹林帯に入る。コルまで下ったら、錫ヶ岳への長い登りが始まる。
樹林帯に入ってから、ルートがひどく分かりづらくなった。尾根は広く、踏跡は無い。歩きやすそうなところを進んでいくと、いつのまにか尾根を外れてしまっている。復帰しようにも、どこをどう進んでいいのやらだ。どの方向を見ても同じ景色にしか見えない。登りなら藪を突っ切ってとにかく上へ向かえば良いが、下りでは注意が必要となる。
登山の目印だろうか、金属のプレートが木に打ち付けられていた。まったくの自然に囲まれてひとりぼっち、そんな時に人の手が入った痕跡を見つけると、なんだかホッとする。
ほうほうの体で到着した錫ヶ岳は、樹林に囲まれた展望無しの山頂だった。でも、これがいい。こんなところまでわざわざ登ってくるっていうのが、純粋な登山らしくていい。
この先もずっと歩いて行けば、皇海山まで繋がっている。さらにその先は袈裟丸山まで。いつかテントを背負ってこの稜線を歩き通してみたいものだ。
時刻は午後1時、ここまで7時間もかかってしまった。ゆっくりと感慨に浸っていたいが、そうもいかない。来た道を帰らなくてはならない。荷物を軽くするためにビバークセットも持ってきてないから、どんなに遅くなっても帰るしかない。帰りも同じくらいの時間がかかるだろう。
登りでは何度も迷った樹林帯も、ルートの取り方に慣れたので、下りはスムーズだった。
コルから2296mピークまで登り返すと、縞枯と笹原の尾根が続く。見通しが良くなり、ずっと白根山を眺めながら歩くことができる。午後の暖かみを帯びた光に包まれて、風景は優しく美しい。うっとりするような山の時間だ。
行きには迷いつつ歩いた笹原も、帰りは快調に進んでいく。腰の高さの笹をかき分けていくと、笹は胸の高さになり、さらには背丈を超えるほどになった。その先はシャクナゲの藪だ。密生してないので、それほど困難ではない。これならなんとか進んでいける。
いや、ちょっと待てよ。行きにはシャクナゲの藪漕ぎなんてなかったぞ。そういえば背丈を超える笹原もなかった。
GPSで位置を確認すると、尾根が右にカーブしてるところを直進してしまったようだ。そういえば進む先には白根山のガレた山肌が見えている。美しさに見惚れて真っ直ぐ進んでしまったが、この先は谷へ向かって大きく落ちていくはずだ。
主尾根の方向を見定めて笹藪を突っ切る。ほどなくして、人が歩いた形跡のある場所に出た。
今度は白根隠山を正面に見て歩く。奥白根は左手だ。
この尾根から眺める白根山には端正な美しさがある。それが、秋の午後の淡い光線で薄橙色に色付いている。
ああ、もうそんな時間か。これは明るいうちに下山は不可能だ。せめてバリエーション区間は日が落ちる前に通過したい。
笹藪を抜け、ザレた斜面を上る。左手には白根山、右手には日光の山々。
朝通過した白根隠山を、6時間半後に再び逆方向から通過した。
日の光は完全に夕方のそれだ。周囲の風景がオレンジ色に染まっていく。だが、もう大丈夫。ここからはしっかりしたトレイルが続く。
前白根山にもどったのは、ちょうど日没時刻であった。
空の色は薄紫から濃い藍色へと移ろい、やがて漆黒の闇に包まれた。そこからはヘッドライトを点灯してガレた登山道を下った。
ピー!ピー!と鹿の甲高い警戒音が耳障りに響く。試しにヘッドライトを消してみると、自分の手さえも見えないほどの暗闇だ。足元がおぼつかないので、慎重に下る。いまさら急いでもしかたない、確実に下山しよう。
遠くの森に何かを感じて目を向けると、闇の中で二つの光る眼がこちらを見ていた。いや、二つではない。その横にも、そのまた横にも眼が光っている。その数はどんどんと増えていった。無数の光る眼は、ずらっと並んでこちらを凝視している。
夜の山は、昼とは違う世界だ。
下山したのは20時を過ぎていた。
2021年10月