下ノ廊下と人間の欲望

扇沢からの始発バスで黒部ダムまで上がった。今回の山旅ではここが最高地点になる。そう、下ノ廊下を下るのだ。

ケーブル乗り場へ向かう人の流れから離れ、ダムの基部へ降りた。シーズンなのでまあまあ多くの人がいるが、すぐにバラけるだろう。渋滞もなく快適に歩けそうだ。

電気バス内でひとつ事件があった。プラティパスが破れて水が漏れてしまったのだ。他に水を保管できるものといったら、行動食の入った500mlのナルゲンボトルしかない。行動食をビニール袋に移し、プラティパスの水を入れた。当然だが2リットルすべては入らない。飲めるだけ飲んで残りは流した。長丁場を500mlで間に合うか心配ではあるが、沢沿いなのでいざとなればなんとかなるだろう。

歩き始めて1時間で飽きた。

沢に沿って設られた作業道を下るだけなのだ。多少の登り降りもあるにはあるが、ほとんど平坦である。それでいて距離は長い。この調子で二日間歩くと思うと、少々うんざりする。曇り空で景色も冴えない。紅葉でもしてれば良いのだが、まだ早過ぎたようだ。

水は大丈夫そうだ。支沢が多く、出合で沢を渡るたびに水を補給することができる。

ほとんど平坦な下り基調なので激しく汗をかくこともない。

進むにつれて、両岸が切り立った崖になってきた。崖の中腹を削り、時には木橋をかけて道を通している。写真でよく見る下ノ廊下の風景だ。

確かにここから落ちたら命はない。でも、落ちるのは相当なマヌケしかいないだろう。とにかく真っ直ぐ歩けばいいのだから。道幅はひとり分には十分ある。へつりで通過するような箇所はもちろん無い、

普段着に運動靴、レジ袋に水と食料を入れて下ノ廊下を下った少年たちが批判されていたことがあったが、なんのことはない、それでも問題なく歩けてしまうのだ。

もしもの時はどうするのかというのは、下ノ廊下では当てはまらない。もしもの時は、たいてい命はないからだ。それに重装備にしたからといって、平坦な道を踏み外して落ちる可能性が減るわけでもない。むしろ軽装で体力の消耗を抑えるほうが理にかなってると言えるかもしれない。

必要以上に恐怖を煽るのもいかがなものかと思う。まあ、だいたいは、それが商売の人たちが自分の利益のために言い出して、それを真に受けた批評精神の足りない人たちが、他者を攻撃して悦に入る材料にしてるだけである。あまり真剣に受け取らない方がいい。

登山は結果が全てである。どんなに準備しても死ぬ時は死ぬし、たとえ軽装であっても、問題なければそれでいい。

単調で平坦な道だとはいえ、集中力を切らして躓いたりよろけたりすれば危険である。退屈だけど気は抜けない。疲れるばかりである。

しかしまあ、よくこんなところに道を通そうとしたものだ。道だけではない。トンネルを掘り、列車を走らせ、渓谷の奥深く、3000m級の山々の谷間に巨大なダムを建設してしまったのだ。現代ではおそらく許可されないであろう大規模開発である。

それもこれも全て電気のためなのだから、人間の電気に対する欲望というのは計り知れない。そもそも黒部ダムの建設目的は、関西地区の経済発展に必要な電力の確保であったのだから、人間の金に対する執着の果てである。

命を犠牲にし、自然を改変してでも手に入れたいもの、それが金というのは、よくわかると同時に寂しい気持ちにもなる。

雄大な自然の奥深くに建設された一連の黒部ダム施設はあまりにも壮大で、文化遺産と自然遺産の両方の価値を備えた複合遺産として世界遺産に登録される可能性もあるという。実際に推薦活動もされているようだが、日本の場合、世界遺産への登録は保護保全のためではなく観光振興が目的であることが多い。これもまた金のためである。

6時間歩いて仙人谷ダムまで来た。ダムの内部を歩いて抜ける。ちょうどトロッコ列車が走った後だったので、ダムの内部には焼けた熱い臭いが充満していた。

さらに1時間で阿曽原温泉小屋に着いた。テントを張り、温泉で汗を流した。

到着時にはまだ多くはなかったテント数も、夕方になると張る場所がないほどの過密状態になっていた。

翌日は晴れ。水平歩道を行く。距離は短いので、それほど時間もかからないだろう。

昨日の危なっかしい道から比べると、だいぶしっかりした作りになってきた。

驚いたのは、出合での徒渉がないことだ。本来なら沢を渡るところは、トンネルを掘って沢の裏側を通るようになっている。崩落のたびに修復するよりも、トンネルを掘っちゃったほうが長い目で見れば手間要らずだとはいえ、建設にはかなりの労力が必要だ。よくやるものだ。

最後は急な下り坂を20分下って欅平に到着した。観光客や家族連れにまぎれて、汗びっしょりでトロッコ列車に乗り込んだ。

トロッコ列車の後は、富山電鉄、北陸新幹線、JR大糸線、特急あずさ、アルピコ交通と乗り継いで、扇沢まで車の回収に向かう。

扇沢に着くのは夕方になる。一日のんびり電車の旅だ。

2021年10月