南アルプスフロントトレイル section1
夜叉神峠を起点にして南へ、櫛形山、源氏山、富士見山、七面山、十枚山と、南アルプス前衛の山々を繋いで貫ヶ岳へ至る尾根道が南アルプスフロントトレイルとして整備されていると知った。
七面山から先は明瞭なトレイルがあるが、夜叉神峠から早川町役場までは未整備区間が多い。整備が完了して普通の登山道になる前に、この区間を歩いてみようと計画した。今が、この山域の静寂を味わえる最後の機会になるかもしれないから。
夜叉神に車を停め、稜線まで上がる。向かい側の白峰三山を眺めてから、南へと歩き始めた。
高谷山までは一般ルート、その先もはっきりした登山道が続く。だが、これなら楽勝だなと思えたのは、団子沢山までだった。
団子沢山から広い尾根をそのまま進むと、間違った方向へ行ってしまう。山頂で左へ曲がり、大崩壊地の淵に沿って急斜面を下るのが正しいルートだ。
この斜面はかなり急で、まったくの未整備なので、立ち木につかまり、そろそろと降りるしかない。ここで滑り、まちがって左へ転ぶと、崩壊地へ転落してしまう。慎重にならざるを得ない。
団子沢山から先は、まだ手付かずであった。ときどき踏み跡が見えるものの、ほとんどは自然のままの山を歩くことになる。尾根を外さないよう注意しなければならない。急斜面の直登直下降を繰り返して、ひとつひとつのピークを越えていく。支尾根も多いので、地形図を確認しながら方向を定める。
歩きづらいものの、これこそ山の醍醐味よ、と気持ち軽やかに歩いていた。しかし、笑っていられたのも、そこまでだった。
ドノコヤ峠の先にあるナイフリッジに差し掛かったとき、これはマズイかもしれないと思った。岩がもろくボロボロと崩れるので、直登はまず無理だ。左右どちらかから巻くしかない。
うっすら踏み跡らしきもののある左側から巻くことにした。
下り始めるとすぐに傾斜は急になった。立ち木につかまり後ろ向きに降りていく。しばらく下ったが、これはほとんど崖である。下れば下るほど険しくなっていく。いくらなんでもロープなしでは危険すぎる。せめて空身であればまだしも、20キロの荷物を背負って降りる場所ではない。それに、下ってもナイフリッジを巻けるかどうかわからないし、巻いたあとの尾根への復帰も不確実だ。
しばらく下をのぞき込んでいたが、諦めてもどることにした。登り返しで、自分がどんな状況にあるのか理解した。
後ろ向きで半身になっていたので気づかなかったが、ほとんど垂直に近い崖にへばりついていた。腕を伸ばして頼りなげな植物をつかみ、足場を探して体重+20キロザックを持ち上げる。足場はボロボロと崩れる。つかんだ植物が抜ければ、ただではすまない。
少しづつ少しづつ細かく刻んで自分を持ち上げる。ここで焦るとろくなことがない。勤めて冷静に。時間をかけてじわりじわりと登っていく。
ようやく安心できるところまで登ったときには、ホッとするとともに、どっと疲れが押し寄せて、その場に座り込んでしまった。
が、これで終わりではない。この先どうするか。目の前のナイフリッジを見つめ、ここで引き返すことも真剣に考えていた。
まだ右側は試してない。右側は、数メートルは簡単に下れるが、その先はずっと下まで続く急なザラ場をトラバースしなくてはならない。あれはちょっと無理だろと思い、最初から選択肢になかった。しかしもう、そこを超えるか引き返すかの二択だ。とりあえずザラ場の手前まで行ってみるか。それから撤退を決めても遅くはない。
岩場を下り、ザラ場の淵まで来た。近くで見ると、いっそう急傾斜である。足を置いただけで滑りそうだ。滑れば途中で止まれるとは思えない。速度を上げて谷底まで落ちていくだろう。こんなところをトラバースするなんて不可能だ。
諦め切れずザラ場をよく観察し、渡れそうなところを探す。
ん?あれは…。
まっさらのザレ砂に見えていたが、途中で横に筋が入っているのに気づいた。
あれは…人が歩いた跡じゃないか…?
目を凝らして見れば見るほど、それは踏み跡に見えてくる。いや、あれは踏み跡に間違いない。ザラ場を横切り、その先へと続いている。あそこならトラバースできそうだ。問題はどうやってあそこまで降りるかだ。
踏み跡はおおよそ30メートル下。ザラ場の淵はオーバーハングした岩場なので問題外。唯一の可能性は目の前のザラ場を下りるだけ。しかしそれは、まっすぐ立っているのもままならないほどの傾斜だ。ザレた砂の上では簡単に滑るだろう。通常なら、ここを下るなど考えもしない場所だ。途中には立ち木が二本。つかまれそうなものはそれだけ。10メートル下に一本、さらに数メートル下にもう一本。まずは最初の立ち木まで下ろう。
体制を整え、ザラ場へ足を踏み出した。バランスを崩さないよう一歩。小さな歩幅で次の一歩。さらにもう一歩。ゆっくりじわじわ下っていく。四歩目で地面に下ろした足が、ザレ砂でわずかに滑った。あっ、と思った瞬間には、体が激しく地面に叩きつけられ、同時に勢いよく斜面を滑り始めた。
このままだと数百メートル滑り落ちてしまう。無事ではすまないだろう。ヤバいとは思ったが、不思議に冷静でもあった。
滑り落ちた瞬間に、なにかのスイッチが入ったのか、脳の回路が切りかわったような気がした。思考がクリアになり、すべてを瞬時に理解した。見えていた地形、立ち木の位置、滑り落ちるスピード、自分の体勢、あらゆることを考慮して、なすべき最適解を得る。このあいだ、現実的には1秒以下だっただろうが、自分の中の時間はスローモーションのようにゆったり流れていた。
滑り始めてすぐに最初の立ち木だ。ここではあわてず、体制を整えることに注力する。足を下にし、右向きになる。二番目の立ち木、ここが最初で最後のチャンス。自らのスピードと位置から、ここというポイントで地面を蹴る。立ち木に飛び移ったら、両腕でしっかり抱え込む。
ひとつのミスもなく、体は完ぺきに動いた。
落ち着いてみると、体のあちこちが痛い。ズボンの尻は大きく裂けている。しかし、深刻な状況ではないようだ。
二本目の立ち木から踏み跡までは、容易に下りることができた。
それは間違いなく踏み跡だった。ここを歩いた先人がいるのだ。上部に比べれば傾斜は緩く、ここならトラバースできる。といっても、転べば下まで滑り落ちる。バランスを崩さないよう、慎重に進む。
ザラ場を渡り、そのまま踏み跡に沿って歩く。踏み跡が消えたあたりで尾根を見上げる。尾根は約30メートル上。すでにナイフリッジは巻いている。いけそうなところを探し、尾根を目指してよじ登る。
復帰した尾根は普通の尾根だった。いや、未整備の尾根なのだが、これなら普通に歩ける。このルートの最大の難所は超えた。
唐松峠を過ぎると、徐々にトレイルがはっきりしてきた。2時間ほど歩き、ガードレールらしきものが見えたので強引に直登すると、池の茶屋の遊歩道に出た。
ここまで想定外に時間がかかってしまった。すでに夕暮れである。
櫛形山への取り付きを探してうろうろしたが、暗くなってきたため、諦めて池の茶屋へ向かった。
池の茶屋の避難小屋に到着し、簡単な夕飯をすませ、まもなく眠りに落ちた。
つづく