2021年の南アルプス 〜 稜線編 その2/ 兎岳

百間洞山の家に到着したのは、まだ午前中だった。

今日はここまでにして、明日ゆっくり聖岳を越えたい。さっきはすっかりその気になっていた。だが、ここでも携帯電話はつながらない。

少しだけ休憩してから先へ進んだ。三日で下山するには、最低でも兎岳まで行っておかなければならない。

湧き上がる白いガスが景色を隠し始めた。青かった空は、灰色の雲で覆われた。

中盛丸山に着いた時には、雨がパラパラと落ちてきていた。梅雨明け直後のこの時期は、やはり午後になると天候が崩れる。レインウェアを着て、ザックカバーをかけた。

雨足は次第に強くなっている。遠くの雷鳴が近づいてきた。

先を急ぐものの、重い荷物にスピードは上がらない。

小兎を過ぎて兎岳への登りに差しかかったところで土砂降りになった。いままでに経験したことのない激しい降り方だった。

梅干しほどの大きさのの雨粒が、太い軌跡を描いて勢い良くいっせいに落ちてくる。最初は一体なにが降ってきたのかと思った。雨が体に当たって痛いというのは、初めての経験だった。

雷はすぐ近くまで来ている。閃光が走った一瞬後に、バリバリバキバキと大地が割れるような轟音が響く。森林限界を超えた稜線上だ。なにも遮るものがない。生きた心地がしない。

ピカッと光ったら、急いで地面に突っ伏す。川のように水が流れているが、気にしてはいられない。あとは直撃しないように祈ることしかできない。

そうやって少しづつ兎岳へと登っていく。すでに全身ぐしょ濡れだ。逃げ場がどこにもないから、なるべく早く登るしかない。雷の中で標高を上げていくのはセオリーに反するが、いまは一刻も早くこの雨から逃れたい。

山頂を超えて避難小屋が見えたときは、少しだけホッとした。

小さな避難小屋はすでに人でいっぱいだった。少しづつ詰めて場所を作ってくれたが、頭から足先までずぶ濡れで、全身から水がしたたり落ちているこの状況では遠慮して、豪雨の中、テントを張って逃げ込んだ。

何もかもが濡れてしまった。登山靴には水が溜まり、靴下は水没だ。雨は下着まで達している。シュラフも濡れてべったりしている。カメラは起動しなくなった。どうやら壊れてしまったようだ。

着替えもないので、脱いだ衣服をよく絞ってから再び着た。じっとしていると、体が冷えて寒くなってきた。今夜は濡れた体で湿ったシュラフに潜り込んで不快な一夜を過ごすことになるだろう。

激しく降り続いた雨も夕方には止んで、避難小屋の上には青空が広がっていた。

つづく