夏休みは北アルプスへ Day3 – 鑓ヶ岳 / 杓子岳 / 旭岳
快晴の朝だ。鑓ヶ岳に向かって長い登りを登っていく。
一歩登るごとに、風景は変化する。振り返ると通過してきた後立山の稜線、その向こうは剱に立山だ。
あぁ、なんて良い朝なんだろう。
山頂からは、これから向かう白馬岳がとんがって見える。その横の大きな山は旭岳だ。
ずっとこの場所に居たかったが、先を急ぐことにする。三日目は白馬岳頂上宿舎までしか行かない。この四日間の中でも最も距離は短いが、天気の良いうちに通過したい。この区間の風景は今回のハイライトのひとつなのだから。
杓子岳にももちろん登る。巻いてしまえば楽なのになと思いつつ、山頂への急な登り坂を登っていく。初日のダメージから回復していないので、あいかわらず体は重い。
杓子岳を後にすると、空模様が怪しくなってきた。と思ったら、あっという間にガスに巻かれてしまった。数メートル先も見えない。天気の崩れはやはり早い。
白馬岳頂上山荘に到着して、天気が良ければ旭岳に登りたいなと思っていた。だから三日目の縦走予定は特別短くしてあるのだ。しかしこのガスでは厳しい。登山道から外れて道のないところを登らなければならないので、先が見えないのは致命的だ。まあしょうがない、今回は見送ろう。
濃い灰色のガスの中を手探りのようにして進んでいく。ふと顔を上げると、空の一部だけガスが切れて、ぽっかり青空がのぞいていた。そして青空の下には旭岳が。
登ってこいよ、と言われた気がした。よし、幕営地に着いて、まだ山が見えていたら行こう。
それから1時間、テントを設営してもまだ旭岳は見えている。他の山々は完全にガスの中なのに、なぜだか旭岳だけは見えている。
これはやはり、登ってこいと言われている。間違いない。
さて、登るにしてもどこから登るかが問題だ。手前の東側から登るのが一般的のようだが、見るからにザレているし上の方は角度がキツい。植物も生えてないので捕まることもできない。それになにより、山荘から丸見えである。滑って落ちたりしたら恥ずかしい。
西側からも登ってる記録はあるので、そちらを見に行ってみることにした。すると、地図上での山頂の真下、南側に登れそうなところがあった。ここから登るのが良さそうだ。今日の直感は冴えてる気がする。
10mも登ると踏跡は消えて草地に飲み込まれた。ここからは適当に登っていくしかない。なんとなく踏跡っぽくなってるところやゴロ岩の上を伝って進んでいく。見上げる山頂はまだまだ上だ。しかし、この後には難しいところは無さそうだし、角度もそこまで急ではない。とにかく登っていけばなんとかなるだろう。
山頂直下では完全に踏跡が無くなり、草地を直登するというあまりよろしくないルートになってしまったが、なんとか登頂することができた。
手前のピークから奥のピークへのヤセ尾根には綺麗なルートが付いていたので、なんなく行くことができた。この奥のピークが旭岳の山頂になるようだ。
うん、いいな。いい天気だ。ここまでわざわざ登ってきた満足感もある。向かいの白馬岳にかかっていた雲も取れた。まるで登頂を祝福されているかのようだ。
だれも登ってこないし、時間の許す限りのんびり過ごそう。
15分ほど山頂でぼーっとしていたが、天気が崩れる予感がしたので下山することにした。なぜそう思ったのかはっきりとはわからない、雲の動きなのか風の匂いなのか、なにか具体的に天気の崩れを示す兆候があったということでもない。ただなんとなくそう感じたのだ。
下山は西側に付いていた踏跡を辿った。しばらく下ると、その先は急なガレ沢に吸い込まれていくようで、ここから向こうへは行ってはいけない気がしたので、方向を変えてまっすぐ下ることにした。やがて、登りで通った見覚えのある場所に出て、ほどなくして一般ルートへ降り立つことができた。
一般ルートに降りると、あたりはガスに包まれ、再び数メートル先も見えなくなってしまった。この状態で旭岳から降りてくるのは、かなりの危険を伴うだろう。完ぺきなタイミングで下山を開始したことになる。
天気の崩れを予知したのは、観天望気というよりも、もっと直感的ななにかであったと思う。
インド哲学では、深い瞑想状態になると自意識から潜在意識に入り、さらにその奥の宇宙的無意識に到達するという。これは宇宙の根本になる領域で、万物はこの領域で繋がっているとされる。ユングが集合的無意識と呼んだ深層心理とも近しい概念だ。この領域に達すると、自然の摂理や宇宙の法則をそのまま体感するともいう。
登山は瞑想である。山を登ることはそれ自体が瞑想だとインドの行者も言っている。古来から登山には瞑想的な修行が伴っていた。一人で山に登っていると、いつしか深い瞑想状態に入っていることがある。この状態で宇宙と繋がったとき、自然の変化をそのまま体感するようになるのかもしれない。予知や直感というのは、ここから来ているなにかであろうか。あるいは、天の啓示や神の声も、文化的背景による表現の違いであって、同じ現象について語っているのかもしれない。
ともあれ、下山したそのタイミングで天気は崩れた。あわよくば白馬岳にも登ってこようと考えていたが、雨も降り出したので大人しくテントへもどった。
テントの受付に食堂へ入ると、ちょうどお昼時で美味しそうな匂いが充満していた。メニューを見ると、カレーと牛丼であり、どちらも間違いなくレトルトだろう。しかし、人が食べてるのを見ると、この世のものとは思えないほと美味しそうである。なにせ毎日ろくなものを食べていない。1100円も出してレトルトを食べるのはバカバカしいと思いつつ、あまりに美味しそうなのでもう少しで注文してしまうところだったが、ケチが勝って思いとどまった。うむ、人が運んだ食料を金を出して買うのは方針に反する、これでいい。食べたかったが、食べていたら後悔していただろう。
その日の昼も夜も、担いできた食材であまり美味しくない料理をつくり、お腹を満たした。
つづく