中央アルプスひとり旅 尾根編 – 檜尾尾根

魅惑の稜線を檜尾岳で後にして、下山路を下ります。

下り始めてすぐから、そこそこの残雪がでてきました。稜線では雪はほとんどなく、二カ所だけわずかの距離、雪の上を通過しましたが、危険を感じるようなことはありませんでした。

が、尾根道はそうはいきそうもありません。一部、日の当たるところや風が吹き抜けるところは夏道が出ていますが、大部分はしっかり雪が残っています。そしてまさかのノートレース。いちおう先行者のトレースらしきものもありましたが、通過したのは何日も前のようで、ほとんど消えています。

出発前の千畳敷で、この日の予定ルートを見た遭対協の方が、檜尾下るのか…、迷いやすいので気をつけて…、とおっしゃってました。宝剣岳を超えるのには、全くなにも言わなかったのにです。よほど気になったのか、登山口でアイゼン付けてるところへわざわざ来て、もう一度、気をつけるようにと声をかけていただきました。

道を間違えることはあっても、道に迷うことはないと思ってるので、その時はさして気にも留めませんでした。まあ、尾根を下るだけだし、間違った尾根に入らないよう注意しておけばいいだろと思ってました。

が、これは、全く別次元の問題です。そもそも、どこを歩いていいのかがよくわかりません。

尾根は広い部分もあり、急傾斜で落ちていくところもあり、ヤブで進めないところもあります。尾根に忠実に歩こうとしても、そういうわけにもいきません。方向を見定めて、歩けそうな場所を選んで下るしかありません。いちいちしっかり確認しないと、方向がずれたまま進んでしまう可能性もあります。

残雪は深く緩んでいて、ずぼずほ踏み抜き体力を消耗します。岩やヤブで越えられない小ピークが多く、そこは巻いていくしかありません。しかしこれがまた、どこでトラバースしていいのか悩むような急傾斜なのです。このあたりなら行けそうかなというところを、ゆっくりと一歩づつ、ステップを刻みながら進みます。

気温が高く、雪が緩んでいたので助かりました。足を置く位置を作るのは難しくありません。それに、これくらいザクザクなら、万が一斜面を滑り落ちても、足を突っ張れば止まれるでしょう。これがもしガチガチに凍結してたら、そうとうな緊張を強いられたはずです。万が一でも大丈夫っていう安心感は、大きな心の余裕になります。

ほんとにここを真っ直ぐ下れるのだろうかと躊躇する急斜面の尾根筋も何度かありましたが、心に余裕を持ってキックステップで降りていくことができました。

そうして慎重に一歩づつ、体力と精神力を消耗しながら下ります。当然ですが、予定以上に時間がかかってきます。午後から下り始めて夕方に下山の予定でしたが、時間が押せば暗くなってしまいます。

まずいな。暗闇の中、ここを下るのは無理だ。迷いやすい尾根だといっても、雪がなければそれほど心配することもないけれど、この残雪ノートレースでは危険だ。というか無理だ。

日の光が差さない樹林帯の登山道は、すでに薄暗くなりつつあります。まずいな。まずい。まずいと思ったときは、冷静に客観的事実を集めよう。

確かに夜になったらここは下れません。でも、雪がなければ下れます。向かい側に見えてた南アルプスの残雪状況からして、2000mまで下ればほぼ雪はないでしょう。午後六時、いや六時半まではヘッドライトなしでもじゅうぶん歩けるはずです。残雪の尾根で予定の倍の時間がかかったとしても、2000mまで下るのにはじゅうぶんな余裕があります。間違った尾根を下ってしまい、登り返しで大幅に時間を浪費しない限りは大丈夫です。雪がなくなれば、そこから先はなんとでもなります。残りの距離と時間を冷静に計算すると、日が落ちるころには檜尾橋の登山口まで降りれそうです。

無理だ。危険だ。こんなのできない。もうダメだ。限界だ。その限界ってなんの限界なんでしょう?

それは肉体の限界ではありません。あと一歩でも歩けば体がバラバラになってしまうような肉体の限界はもっとずっと上のはずです。もう限界だと思うのは心の限界。それはたぶん、先入観や思い込みや不安や勇気の足りなさで心の中に作られた限界。

心の限界へ近づいていく間は、不安や恐怖がどんどん増して押しつぶされそうになるけれど、そこを超えてしまえば意識は宇宙に溶け出して、世界はいままでと全く違って見えてきます。

多くの人は、心の限界の手前で引き返してしまうか、そもそも心の限界へ近づこうともしないですが、心の限界以上、肉体の限界未満のこの領域で歩くのは、山の醍醐味の中でも最上級のもののひとつ。

木々の切れ目から見えた空木岳の頂きが、傾きかけた日の光に照らされてオレンジ色に輝いていました。東側斜面の樹林帯を下ってたので、日が差さず薄暗くなったと感じてましたが、まだまだ日は高い。大丈夫。

頻繁に地形図を確認していたので、すぐに気づきましたが、2250m付近で間違った方向へ下りかけていました。尾根を真っ直ぐ下っていたのですが、このあたりで尾根の乗り換えをしなければならないようです。どうやら、沢の向こう側に見える尾根を下るのが正しいルートのよう。しかし、その沢はとても急で、トラバースできるような角度ではありません。これはいくらなんでも落ちる。。

下へ行くほど急斜面になっているので、しかたなく登り返してトラバースできそうなところを探します。そしてすぐに沢の源頭まで来てしまいました。上側は樹木が密生していて突破は不可能です。周囲の状況を入念に観察してみましたが、沢の最上部をトラバースする以外に手はなさそう。そしてここがどうやら正規ルートのようでもあります。他の部分よりはいくらか傾斜が緩やかとはいえ、いままでにない急斜面のトラバースです。いくら雪が緩んでるとはいえ、この角度になると滑ったら止まれる自信はありません。一歩づつ。慎重に。ステップを刻み、着実に足を進めます。

精神をすり減らすトラバースを終え、残雪の斜面をさらにしばらく下ると、唐突に雪のないところに来ました。痺れる下りもようやく終わりのようです。

ここから先は普通に樹林帯の登山道。そしてその先は舗装路です。

もう大丈夫。知恵と勇気と精神力で下りきった充実感に浸りつつ、うす暗くなってきた登山道を急ぎ足で帰ります。