九月の五日間
ついに来た。とうとう来た。いや、ようやく来れた…かな。
ずっと憧れていた南アルプス南部の山々へ、ついにとうとう登るのだ。
東海地方で育った自分にとって、南アルプスというのは比較的身近な存在だった。
でもそれは、地元からそれなりに近いというだけであって、自分がそこに登る日が来るなんて、当時は全く考えたこともなかった。
近所の里山を適当に走り回っていた少年にとって、南アルプスというのはいつか登る目標の地ではなく、辿り着くこと叶わぬ異世界であった。
いまのように、多くの登山者が気軽に高山へ出かける時代ではなかった。そこへ行けるのは、訓練を積み重ねた選ばれし者たちだけだったのだ。
行けるかもしれない、そう思ったのはいつだろう。それほど昔のことではない。
地元の低山を駆けずり回っていた少年は、いつしか大人になり少し遠くの少し高い山にも登るようになっていた。
普段着に運動靴で登っていたのが、ゴアテックスやらメリノウールやらを着るようにもなっていた。
相変わらず単独ではあったが、長い年月の間に、いくらかの経験の蓄積もできた。
行けるかもしれない、でも行けるのはいつになるだろう…。
南アルプスは山が深い。大きくて深い。
頂きに辿り着くまでには、深い山並みの奥に入り、長い尾根を登り続けなければならない。
つまり、日数がかかるのだ。
どこかの山頂をピストンするだけでも、一泊二日が必要だ。
でも、山頂ピストンではつまらない。どうせ行くなら森林限界を超えた稜線を縦走したい。
南部の主要な山々をつないで歩き通すには、三日か四日は必要である。稜線までの登りに一日、下りに一日かかるので、縦走するには五日から六日が必要になる。
これは、いまの自分にとって夢のまた夢であった。
年末年始なら多少は長く仕事を休めるが、7月から9月までの夏山シーズンだと、どんなに続けて休んでも四日間なのだ。夏休みも連続四日しかない。
しかしなんと、今年のシルバーウィークは五連休になっているではないか。会社カレンダーを確認しても、五連休になっている。
これは…行くしかないな。
こんなチャンスは二度とない、退職後までないのではないか。
シルバーウィークは南アルプスへ。
年の初めにカレンダーを見た時からずっと、そんな想いが心の中にあった。
長期の山旅に出かけるには、もうひとつ問題がある。
仕事と…もうひとつは家庭だ。といっても、巷によくある話ではない。
我が家には、いまや唯一の家族となってしまったペットがいる。
一泊ならさして問題もないのだが、二泊になるとご飯やら水やらトイレやらが保たなくなってくる。それになにより心配だ。
もう高齢で寝てばかりなのだが、やはり人がいないと淋しいようでもある。
が、これも解決した。高齢で体調も悪く、預かってもらうのは難しいと思っていたのだが、この夏はそれなりに調子も良く、相変わらず寝てばかりだが、丸々と太って元気そうで、これなら預けても大丈夫だろう。
時は満ちた。
騒がず愚痴らず諦めず、一瞬一瞬を誠実に過ごしていれば、必ずいつか機会は訪れる。
日本列島に向かっていた台風20号も進路を西へ変え、シルバーウィークの五日間は好天が続くようだ。
天も味方してくれている。
初日はひたすら登りが続く。ずっと樹林帯の中だ。
といっても、奥多摩のような杉の植林地帯ではなく、ダケカンバやオオシラビソの美しい樹林帯。
雄大で気持ち良くいつまでも包まれていたい美しい樹林帯。
と思えるのも最初のうちだけ、なにせ一日中ずっと樹林帯の中なのだから。
イベントといえば、木々が切れたところでチラっと見える赤石岳の姿と、清水平で冷たい湧き水を飲むくらいである。
それ以外はひたすら樹林帯の登りを登る。
さすがに飽き飽きを通り越してうんざりしてきたころ、ようやく千枚小屋に到着した。
初日はここまで。
受付をすませたら早速、担いできた肉を焼き、担いできたビールに担いできた900mlの焼酎を飲む。
山で飲み食いするものは、自分で担ぎ上げる主義である。
そこでしか食べられない、または飲めないものならまだしも、下界で売っているパッケージ商品を、山の上価格で購入することは極力しないようにしている。
それはとどのつまり、自分で担ぎ上げるべき荷物を、お金を払ってボーターに背負わせているのと同じことになるのだから。
突き詰めていくと、山小屋でビールを買った瞬間、その山行はソロではなくなると言えるかもしれない。
お金を落とさないと山小屋の経営が…という意見もあるかと思うが、個人的には全ての営業小屋が避難小屋になればいいと思っている。
避難小屋が朽ちても、幕営指定地さえあればいい。
それさえなくてもビバークすればいいのである。
登山道の整備をする人がいなくなり、山が自然に返っていくといい。
そうすれば、いまより敷居が上がって、山が大混雑するようなことも減るであろう。
自然を大切にしたい、自然を守りたいというなら、現在のオーバーユース問題を考える必要がある。
もちろん、自然を保護するには、ある程度の人の手を入れなければならないことはわかっている。全くの立ち入り禁止にして放置すれば、山は荒れてしまう。
しかし、いまのように山に人が押し寄せるのは違うだろう。
自然を大切にしたい、自然を守りたいという人は、真っ先に山に行くのをやめて、他の人も山に行くのを控える手段を考えるべきなのではないだろうか。
が、しかし、そういう考えを聞いたためしがない。
自然保護を唱える人はだいたいみな、嬉々として自然を踏み荒らしに出かけているのだ。
思慮の浅い口先だけの甘い言葉。
なんとなく最近話題の集団的自衛権反対デモの人たちと同じ匂いを感じてしまう。
様々の思いが、とりとめもなく浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。
夜も更けてきた。普段ならようやく仕事が終わるかという時間だが、山ではそろそろ就寝時間である。
900mlの焼酎は、三分の一ほど飲んだだけで酔ってしまった。
明日からの縦走本番に備えて少しでも荷物を軽くしておきたいところだが、これ以上飲むと明日に差し障るかもしれない。
ほどほどにしておこう。
こうして、南アルプス南部の一日目が終わった。