その答えは風の中さ、風に吹かれてるのさ – 丸盆岳
空は青空、風は優しく、登山道は快適だ。それなのに気分はふさぎ、心はざわついている。
出発前の金曜日に、とても腹立たしく悔しく許しがたい出来事があった。その気持ちを引きずったまま山を登っている。
本来なら、山を愛で自然との一体感を感じて登っているはずが、気づけば昨日の出来事を思い返して、結論の出ない自問自答をくり返してばかりである。山が心に入ってこない。
等高尾根は登りやすい尾根だった。踏跡は明瞭で藪漕ぎもなく、足元に神経をとがらせる必要もない。登山に集中しなくても登れるので、ふと気づくとまたぐるぐると同じことを考えている。あー、いやだいやだ。こんな気分で登っても楽しくない。
解決法は二つしかない。我慢するか、我慢しないかだ。我慢するのは苦痛である。なぜあのような、こちらの善意を徹底的に踏み躙る無礼な行為に耐えねばならぬのか。我慢せずにぶちまければ、少なからぬダメージを与えることができ、溜飲が下がる。しかしそれはそれで、自分にもなにがしかの不利益は発生するし、なにより無関係の友人知人に気まずい思いをさせてしまう。それはなんとも心苦しい。
腹立たしさと悔しさばかりが心の中を占めている。循環の罠に落ちた思考は、永遠の堂々巡りをくり返し、答えの出ない解決策の周りを回る。
気づいたら、あっさりと主稜線に出ていた。取付きから3時間もかからなかった。
左へ行けば丸盆岳だが、まずは右へ、黒法師岳へ向かった。そして、たいした苦労もなく山頂に着いてしまった。
こんなに簡単に登れてしまうと、山の印象がまったく違ってくる。寸又峡からの長い道のりを歩んで至るあの山は、あんなにも楽しかったのに、こちら側から登ると、なんだかちょっとあっけない山だ。
それでも、針葉樹に囲まれた笹原の山頂は美しかった。前黒法師からの道のりに、そして黒バラ平とバラ谷の頭、その先に連なる山々に想いを馳せた。
懐かしく感慨深いはずだが、心が沸き立たない。楽しかった深南部縦走の思い出も、いまは心に響かない。山頂で二人組の男性に話しかけられたが、まともに受け答えできる心理状態ではなく、かなり挙動不審だったであろう。
主稜線をもどり、こんどはカモシカ平へ向かう。深南部らしい笹原だが、藪になってるのは一部分で歩きやすい。
日帰りも余裕な時間であったが、せっかく装備を担ぎ上げたので稜線にとどまることにした。夜は強風の予報であり、すでに風は強いので少々ためらったが、これくらいならまあ大丈夫だろう。
天気は良く時間もまだ早いので丸盆岳に登っておく。明日でもいいのだが、じっとしてると腹立たしさと悔しさで心が病みそうだ。動いていたほうがまだ気がまぎれる。
笹原を進み、山頂に至る斜面を登っていく。振り返ると、笹の稜線が黒法師岳まで連なっている。その奥はバラ谷の頭。
あるマニアックな深南部ルートガイドの表紙になっている風景だ。つまりはこれが、深南部の深南部らしい眺めなのだ。
カモシカ平にもどってきたのは、まだ夕方にもなっていない時刻だった。特にすることもなく、頭の中は不愉快な出来事に占められて、長い午後とそれよりずっと長い夜を過ごした。
翌日は前日以上に快晴の朝だった。
夜半の強風で目が覚めたとき、テントは問題なかったが、また思い出したくないことを思い出してしまい、目が冴えてあまりよく寝られなかった。さわやかな朝だが心は重い。
こんな絶好の天気なんだから、もう一度山頂へ向かうことにした。
昨日と同じ景色だが、昨日と同じではない。朝日を浴びた笹原が黄金色に染まっている。逆光で影になっていた黒法師岳は、いまは順光のもとで輝いている。
心は昨日と同様に晴れないままだ。なんだかもうほんとに疲れてしまった。山は素晴らしいが、気持ちはどこまでも沈んでいる。目の前に広がる素晴らしい景色も、なんだか虚しく見えてしまう。
しばらく山頂で過ごしたが、思考の堂々巡りをくり返すだけだ。そろそろ帰ることにしよう。
カモシカ平までもどり、デポしておいたザックを持ち上げた瞬間、なにかが降りてきたかのように答えが閃いた。
そうだ、そうしよう。自分だけが少々我慢しなければならないのは腹立たしいし、心の奥の悔しさは消えはしないが、それでもいくらかは収まる。それになにより、周りに一切の迷惑をかけずにすむ。
若い頃なら、後先も人目も気にせずにぶちまけただろうが、小さな取引で収めることにしたのは、ちょっとは大人になったのか、それとも歳をとって無関心さが増したのか。中途半端な解決策は気持ち悪くもあるが、だれも大きく傷付けることなくやり過ごすことができる。今回はこれが一番マシだろう。
それにしても、山行中ずっと重い気分にさせておいて最後の最後で答えを示してくれるなんて、山の神様も意地が良いんだか悪いんだか。
山の男の伝統にならって山の女神に敬意を表し、ザックを背負い直してから、麓に向かって歩き始めた。