ああ諸君よ、諸君はこの颯爽たる、諸君の深南部から吹いて来る、透明な清潔な風を感じないのか – 不動岳

開始早々から、ふざけた急登だった。林道のわきからいきなり急斜面の直登が始まり、どれだけ登っても終わりがない。ときおり傾斜が緩やかになってホッとするも、すぐにまた急な登りとなってしまう。

矢筈尾根は厳しい登りだった。登るには人並み以上の体力に加えて、人並み以上の根性が必要だ。心が折れたら足が上がらない。急登に加えて倒木もやたらと多く、潜ったり跨いだり迂回したりして進む。

山はいい感じに紅葉していた。日の光を透かして、赤や黄色に色付いた葉がキラキラと輝いている。急斜面では余裕がないので、わずかの平坦部で息を整えつつ写真を撮った。

こうして矢筈南峰、矢筈山、さらには名も無いいくつかのピークを超え、ここでようやく初めての下りとなるザレた急斜面を降りると六呂場峠だった。しばらく体を休め、六呂場山への登りに備える。

六呂場山の山頂には山名板とは別に、標語というか注意喚起というか、哲学的な言葉が掲げられている。

耳目は欺かない
判断が欺くのだ

世界は、人が観察することでしか成立しない。感覚器官の情報を脳が解析した結果、それが世界だ。各人の内にしか世界は存在せず、それぞれの世界はそれぞれに異なる。

ひたつひとつの情報を的確に処理し、自らの世界の内で判断を過たずに生き延びること。それが登山というゲームのルールだ。

気を引き締め直して、先へ進む。

ここまででずいぶん時間を使ってしまったが、ここからが本番となる。深南部らしい笹の尾根を登っていく。夕暮れの柔らかな光に、笹原が暖かな色味を帯びている。

膝までの高さだった笹は、やがて腰となり、ついには背丈ほどとなった。

まっすぐに立ってられない急斜面を、笹に掴まりながら体を引っ張り上げていく。これも深南部の醍醐味である。

そうして100mほどの標高差を上っていくと、広々と平坦な笹原に出た。鹿ノ平だ。

ガスも出てきたし、まもなく日も落ちる。今日はここまでにしよう。

夜半の冷え込みで確信した通り、翌朝は快晴であった。朝の光でオレンジ色に染まる笹薮をかき分け、不動岳へと向かう。

藪ではあるが、緩やかなので快適だ。笹は高くなく視界は良好で、獣道が錯綜していても間違うこともない。

一歩前に出ると一歩分、三角形の頂が近づいてくる。笹をかき分けて前進する。

笹原と立枯れの風景。深南部の美だ。

最後の登りに取りかかった。もうすぐ山頂に到着する。ずっと来たかった不動岳の山頂に。

昨日は誰にも出会わなかった。今日も会わないだろう。携帯の電波は登山口のずっと手前から入らない。この世界にひとりぼっち。でも不思議と孤独感はない。自由はときどき寂しくもあるが、いつでも美しい。

笹原を風が優しく吹き抜けていった。

2019年11月

深南部

Posted by azuwasa