一泊二日の奥多摩地味デート – 酉谷山 / ウトウの頭

6月の終わりだったか7月の初めだったか、八ヶ岳の稜線を歩いていたら、いきなり本名の下の名前の上ふた文字に「ちゃん」付けで呼びかけられた。「けんちゃん」とか「たけちゃん」とか「としちゃん」とか、そんな感じのやつだ。

うん?なに?えーっと…。突然のことで頭の回転が追いつかない。古い友人はみな、本名の下の名前の上ふた文字で呼ぶが、呼び捨てか後輩であれば「さん」付けである。いい大人に向かって「ちゃん」付けで呼ぶなんて、親戚のおばさんくらいだ。いや、もうひとりいる。

えっ、うそ、と思い顔を上げると、なんとびっくりY子たんとばったりであった。いや、Y子たんだよね。たぶんそうだと思う。久しぶり過ぎてよくわかってないけど、そういう呼び方する人、他にいないもんね。

何年ぶりだろう。最後に会ってからずいぶん経つはずだ。それにしてもよくわかったな。うつむいてたから顔は見えてなかっただろうに。

現実について行けずにキョトンとしていると、Y子たんは「ひさしぶりひさしぶり〜元気〜また山に行こうね〜」と握手して去っていった。私は、キツネにつままれたような、タヌキに化かされたような、イタチに置いてきぼり食らったような気分であった。

こんど飲みに行こうねとこんど山に行こうねは、だいたいその場限りの約束で実現されることは稀なのだが、Y子たんと山に登る機会は意外と早く訪れた。

ほんとは他にもいっしょに行く人がいたのだが、のっぴきならない事情で不参加となったため三人から二人へ変更、行き先は当初の計画通り奥多摩の酉谷山である。

酉谷山か…。地味だ…。地味過ぎる…。

二人だけなので臨機応変に変更してもよかったのだが、どの山域も天気はいまいちだし、奥多摩あたりでお茶を濁しておこうという当初の予定通りとなった。酉谷山…。女子と二人で登るには、なんとも地味である…。

東日原に車を停めて登山開始。登りはヨコスズ尾根で登る。

Y子たんと登るのは、二年ぶりだか三年ぶりだかだと思ってたら、なんと五年ぶりだそう。あれから五年も経つのか。あの日は夜に同窓会だかがあったので、午前中でサクッと御坂山地のどっかに登ったんだっけ。しかし五年も経つと人生いろいろあるもので、いろいろと身の上話を聞きながら登る。私はこの五年、実に変わりばえのない生活…でもないか、それなりにいろいろあったけど、あまり気軽に話すような内容でもないので聞き役に徹する。

ひとりで登るときはいつも、だいたいは黙って登ってるし、足元だけを見つめて、ただひたすら歩くことだけに集中している。

「ねえねえ、見て見て、これこれ」

話が途切れて、そんな集中モードに入ってると、後ろから声がかかる。Y子たんの指差すところを見ると、小さな花だったりキノコだったりが生えている。ただボーッと歩いてる私は、いつもいろいろ見落としてるようだ。てか、Y子たん、ずいぶん余裕あるな。五年前はついて来るだけでいっぱいいっぱいだった気がするのだが。

そうしたY子たんの発見した中に、いままで見たことのない、そしてどう見ても美味しそうなキノコがあった。Y子たんの持ってる花や木やキノコの写真を撮るとAIが名前を特定してくれるアプリで調べようとしたが、あいにく電波が入らなかった。これはどう見ても食べられるやつだよねと言いながらその場を後にしたのだが、下山後にAIアプリで調べてみるとハナビラタケというたいへん珍しくたいへん美味しくたいへん高価なキノコだったと判明して悶絶した。とりあえず採るだけ採っておけば良かったと悔やんでも悔やみきれない思いをしたのであった。

天気予報はいまいちだったが、稜線に上がったときには青空も見えていた。しかしまあ、しだいにガスも出てきたので、酉谷山は翌日にして、避難小屋へ直行した。雨も覚悟していたから、降られなかっただけでも良しとしよう。

酉谷山の避難小屋は鷹ノ巣山と同じタイプで、とても綺麗で新しく、管理も行き届いているようだ。はっきり言って、うちよりも綺麗で新しい。

「○○ちゃんって呼ばれるのはイヤだと聞いたけど、そうなの?」とY子たん

あー、そういえばそんなこと言ったことあるな。イヤというか、なんだか親戚のおばさんに呼ばれてるみたいで、幼いころにもどったみたいで、こそばゆいというか気持ち悪いというか、なんとも違和感があるというか。

「じゃあさ、みんなが呼んでるみたいに呼べばいい?」

最近の知り合いが使う呼び方で呼ばれてみると、それは本名とも関係ないし、なんともいまさら感があるし、こそばゆいというか気持ち悪いというか、とても違和感があったので丁重にお断りした。今まで通りでお願いします。

お昼前に避難小屋に着いたのだが、なんとなく時を過ごしてるうちに夕方になっていた。こんなに持ってきたのかと呆れられる量のアルコール類で、ささやかな宴をしていると、ソロのおじさんが到着した。こんな日にこんなとこに来る人がいるとは思わなかったが、あちらもそう思ったそうだ。

軽くあいさつを交わすと、おじさんはさっさと夕飯をすませて寝てしまった。我々の宴は、日が落ちてあたりが見えなくなるまで続いた。

翌朝、のんびり目覚めて朝食にする。ソロおじさんは我々が寝ているうちに出発したようだ。我々はダラけているし、今日の行程も長くないからのんびりである。

冴えない空模様の酉谷山にいちおう登り、下山はタワ尾根を下る。

タワ尾根は破線ルートだが、そこそこ人の歩くバリエーションルートよりもバリエーション的であった。細かい枝尾根が多く、道標は一切ないので、うっかり歩いていると、いつのまにか間違った尾根に入ってしまっている。

「そっちじゃないんじゃない?」

地図とGPSを確認して後ろから声がかかる。そのつど、引き返したり斜面を強引に直登したりして正しい尾根へ復帰する。いつもいつも、うっかり歩いててすいません。

それにしてもY子たん、以前と比べてもずいぶん頼もしくなったような。 涼しい顔して煽り気味についてくるし、最近は山スキーしてるって言ってたし。

何度目かのうっかりを指摘され、急な斜面を直登して正しい尾根に復帰すると、そこがウトウの頭だった。もう何年も前から来てみたかった場所だ。まあ、なんの変哲もない小ピークなんだけどね。

有名な木彫りの山名表示板は、数年前に二つに増えていた。これが見てみたかったのだ。

ウトウの頭から先は比較的はっきりとした道になり、快調に下っていく。金袋山という、縁起がいいのか卑猥なのかよくわからない名前の山を越え、急な下りを降りていくと日原の鍾乳洞に出た。里の神社では祭りの最中であった。

下山中に下から笛や太鼓の音が聞こえてきていて、鍾乳洞がセンスのイマイチな客寄せ音楽をスピーカーで流してるんだろと思っていたが、録音だとばかり思ってた笛の音は生演奏であった。鍾乳洞の売店は祭りのために休みであり、村民総出のお祭りのようだ。下山したところが村祭りだなんて、なんとも出来過ぎ感もあるが、賑々しくて良い。

しばしのあいだ祭りを眺め、手水で手と顔を洗い、さっぱりしてからその場をあとにした。

楽しい二日間だった。ひとりもいいけど、たまには誰かと登るのも悪くない。どちらが良い悪いではなく、そこにはまた違った楽しさがある。

みんな祭りへ行ってしまったのだろうか、ひと気のない静かな日原を歩いて、集落入口の駐車場までもどった。