GW四国の旅 – 石鎚山編

「途中から凍結しててとても危険ですよ」

長い鎖の垂れ下がった岩場を見上げて旦那さんが言った。

「わたしたちも途中まで登って怖くなって降りてきたんです」

心配そうな顔でこちらを見ていた奥様が続ける。

このご夫婦はこのことを伝えるために、私が登っていくのを待っていてくれたようだ。お二人が上からこちらを見ているのは、数十メートル下で気づいていた。

「どうします?」とご主人が問いかける。

登ろうと思います。

「凍結してますよ。お伝えしましたからね」

そう言い残して、お二人は巻き道の方へと去っていった。

さて、岩だ。

見えてる部分は、特に問題はなさそうだ。大きな輪っかが連続しているタイプの鎖が、垂直に近い岩場にまっすぐ垂れ下がっている。上の方は見えないので、どれくらいの長さがあるのかわからない。季節外れの雪と冷え込みで木々に張り付いた氷のかけらが、朝の光に照らされてパラパラと落ちてくる。

「どうします?」

岩を見上げていると、追いついてきたソロの男性に話しかけられた。

登ろうと思います。

男性は岩場を見上げて考えている。私は、先ほどのご夫婦の言葉を伝えた。

「やめておきます。巻道があるなら、そっちで登りますわ」

さて、岩だ。

取付きは特に危険でもない。斜度はそこそこあるが、手がかり足がかりは充分だ。溶けた氷がひっきりなしに落ちてくるが、当たって痛い大きさではないので無視して登っていく。

「上にも気をつけて!」

背後から男性の声が聞こえる。後ろで見てると、氷のシャワーを浴びてるみたいなのだろう。ヘルメットなど被ってないから、やたらと無防備に見えるに違いない。

登るにつれて傾斜は急になってきた。垂直の岩には氷が張り付いている。足の置き場がない。鎖を掴んで体重をかけた。完全に鎖頼りだ。

オーパーハングした岩から鎖が垂れていて、鎖を掴むと足が岩に届かない。しかたなく鎖の輪に足をかける。岩でなく、空中の鎖を登るようになってしまった。鎖の輪は微妙に小さく、つま先がわずかにかかる程度だ。ぐらぐら揺れて安定しない。

「上にも気をつけて!」

男性の声が下から聞こえた。そんなこと言われても、上など気にしてる余裕はない。溶けて落ちてくる氷の粒は無視するしかない。できることなら振り向いて手を振ってみたいが、そんな余裕はまったくない。必死に鎖にしがみついているだけだ。鉄の鎖の冷たさが革手袋を通して手に伝わる。指先が痺れてきた。しかし手を離すわけにはいかない。絶対に離せない。

「気をつけて!」

ソロの男性はまだ下にいるようだ。おそらく、オーパーハングを超えて見えなくなるまでいてくれるに違いない。ここで落ちたら、あの男性に救助されるんだな。すでに20メートルくらいは登ってるから、落ちたらただではすまないだろう。ここから落ちたら垂直落下でグランドフォールだ。「伝えましたからね」あのご主人の言葉が耳に残っている。墜落したら「ほら、やっぱり言わんこっちゃない」だろう。絶対に落ちれない。「気をつけて!」ソロ男性の声が聞こえる。昨日は二の鎖で滑落事故があったそうだ。そのためだろう、二の鎖は通行止めになっていた。絶対に墜落できない。そう思った途端、恐怖が心を支配した。ひとりで山と対峙してるなら、こんな気持ちにはならなかったに違いない。普段ならなんともなく登れるはずなのに、足が動かなくなってしまった。空中で鎖に掴まったまま動けない。なぜこんなことしてるんだろ。登ってこなきゃよかった。でも降りるのはもっと怖い。ここまで来たら登るしかない。

体がカアッと熱くなった。まさに血液が沸騰するというあの感じ。アドレナリンがドバドバと流れ出ている実感がする。血圧が上がった。心臓が膨らんだようだ。

氷のように冷たい鎖をぎゅっと握りしめた。バランスを確かめ、上へ向かう。鎖の輪に爪先をかけるのでなく、輪に乗ったほうが安定すると発見した。よしよし、これならいける。一気に登って早くここから脱出したいが、はやる気持ちを抑えて冷静を取りもどすよう努める。ここで焦るのが最も事故に繋がりやすい。一歩づつ確実に、あせらずゆっくり時間をかけて。

オーパーハングを超えると傾斜は少し緩やかになった。ようやく振り返る余裕もできたが、岩の下部は視界が遮られていて、ソロ男性の姿は見えなかった。

まだまだ鎖は続く。さっさと登ってしまいたいが、焦らないよう自分に言い聞かせる。先ほどまでよりはマシだけど、それなりの角度があるし、岩全体に氷が張り付いている。もしも滑ったら途中で止まることなく、さっきのオーパーハングからジャンピング台のように空中に飛び出すだろう。

まだ終わらない。まだある。いつまで続くのか。冷たい鎖を握りしめて長い長い鎖場を登っていく。ようやくにして山頂神社の裏手に出たときには、精も根も尽き果てていた。

山頂では多くの登山者が楽しそうにくつろいでいた。

ふらふらっと夢遊病者のように天狗岳へ向かった。緊張感がぷっつり切れて足元も覚束ない。いちおう切れ落ちた岩稜を通過するのだが、この程度ならボーッと歩いてても問題ないだろう。日当たりがいいので雪も氷もない。

「登れましたか?」

天狗岳から降りてきた先ほどのご夫婦に声をかけられた。鎖場の直登より巻道を登る方がずっと早く山頂に着くようだ。

弥山からは天狗岳が、そして天狗岳からは弥山が美しい。晴れてるうちに登っといてよかった。この後は天気の崩れる予報だ。

ソロおじさんとは南尖峰で再開した。しばらくお話ししてから、おじさんと別れ土小屋方面への下りにかかる。

しっかりした踏み跡を辿ったら、沢に吸い込まれてしまった。このまま進んでもヤバそうなので、しかたなく登り返す。南尖峰ではソロおじさんが立ち上がってこちらを見ている。

「あっちじゃない〜?」

稜線まで登り、ソロおじさんの指差す方をのぞいてみたが、切れ落ちた岩の絶壁で、とても歩けるところではない。

おそらく正面の岩を超えて反対側へ下るのだろう。あとはそれしかルートはない。だが、岩を超えたすぐ先がカーブしてて見えないので行かなかった。なにせここも切れ落ちた岩の痩せ尾根なのだ。

そんな報告をソロおじさんとし、今度はおじさんが下りに向かう。私は南尖峰に立ち、おじさんの姿を追う。

おじさんは、自分の指し示したところをチラ見し、沢に吸い込まれる踏み跡を確認し、岩の向こうを眺めて引き返してきた。どれも行けそうに見えなかったようだ。

「どうします?」南尖峰にもどってきたおじさんが尋ねた。

やめておきます。

初見のバリエーションを下りに使うのは褒められたことではない。ここで時間を使わずに、天気が崩れる前に先に進んでおきたい。それになにより、鎖場ですり減らした精神では、もはや集中力が続きそうにない。

あとは下山するだけだからゆっくりしていくというおじさんと別れ、来た道を引き返した。

天狗岳、弥山と超えて、迷いなく巻道で下った。例の鎖場では、鎖の途中でぐらぐら揺れて、登りも下りもできなくなってる男性と、それを心配そうに見上げる女性がいた。