深田久弥という男

「こんな山のなかで死んで、深田さんは幸せだったのかな…?」

好きな山で死ねたんだから、幸せだったんじゃないですか?

一年ちょっと前に訪れた茅ヶ岳、深田久弥先生終焉の地の碑を前にして、そんな会話を交わしました。

幸せだったんじゃないですか…と答えながらも、ほんとはどうだったんだろう、深田久弥ってどんな人だったんだろう、という疑問が心のなかに浮かんでもいました。

深田久弥のことを、いったいどれくらい知っているのだろうかと。

深田久弥といえば作家で、日本百名山の著者。出身は石川県。

それから?

それだけです。

深田久弥のことを、実はほとんど知らないんだってことに気づきました。

故郷の石川県大聖寺で山と文学に親しむ少年時代を過ごした深田久弥は、一高入学とともに上京します。

東大に進学し、在学中から文芸誌の編集者となった深田は、この文芸誌の懸賞小説への応募作のひとつに心をとらえられます。その作者が北畠八穂でした。
八穂の小説は入賞を逃しますが、二人は文通しあう仲となり、やがて八穂は深田を頼って青森から上京、共に暮らし始めます。

出版社を退社し作家として活動を開始した深田でしたが、評判になった作品のほんとうの作者は八穂でした。八穂の書いた小説を深田が推敲して発表する、そんな共同作業で作品が生み出されていました。

まだまだ仕事も少なく生活も困窮した深田は、かつて八穂が文芸誌へ応募した原稿を手直しして出版社へ持ち込みます。この小説「あすなろう」が評判となり、深田は文壇の中心に躍り出ます。

それにしても、入賞を逃したとはいえ、何人かの審査員の目に触れたかもしれない北畠八穂の作品を自作として発表するとは、大胆にもほどがあります。鷹揚で誰からも好かれた深田は、あまり深く考える性格ではなかったのかもしれません。

武骨な叙事的小説を書いていた深田が突如、津軽弁の方言を交えた詩的で叙情的な作品を発表し始めたのです。現代ならすぐにおかしいと怪しまれたことでしょうが、当時は代作問題が表に出るようなことはありませんでした。とはいえ、親しい知人たちは、このことに気づいてもいました。

輝く才能を感じさせるものの、読みづらく飛躍の多い北畠八穂の小説を、文壇に評価されるよう手直ししたのですから、深田は編集者としての能力は高かったのでしょう。「あすなろう」の持ち込み時にも、70枚ではちょっと長いから50枚くらいにしてほしいと言われ、翌日には50枚にした原稿を持ってきたというエピソードもあります。

この深田と八穂の二人三脚の創作活動も、やがて崩壊する日が近づいてきます。

作家仲間の姉として紹介された木庭志げ子こそ、一高時代の深田が日々の通学ですれ違い、密かに恋心を抱いていた女性でした。志げ子も、当時の深田のことをよく覚えていました。家庭の事情で嫁ぐことなく実家にとどまっていた志げ子が、いまや文壇の寵児となった深田と恋仲になるのに時間はかかりませんでした。

幼少から重度の脊椎カリエスを患っており、このころには歩行どころか起き上がるのも困難だった八穂を家に残し、深田は志げ子と逢瀬を重ね、やがて志げ子は深田の子を身籠ることとなります。

この二重生活も深田の出征により一時途切れましたが、復員した深田は、八穂の住む鎌倉の家に少しのあいだ立ち寄ったのち、志げ子と息子の待つ疎開先の越後湯沢へ行ってしまいます。

越後湯沢で生活し、ときどき鎌倉の八穂の元で執筆活動をすると、また再び志げ子のところへと帰っていく、そんな暮らしも長くは続きませんでした。愛人どころか子供までいることが八穂の知るところとなり、深田は八穂から離縁を突きつけられるのです。

深田としては、この二重生活をずっと続けるつもりだったのでしょう。選択肢がそれしかなかったとはいえ、続けられると思っていたとは、なんとも大胆というか鷹揚というか。しかし、深田とは対照的に激情型の八穂には、こんな裏切り行為は我慢のならないものでした。

離婚後、八穂は復讐するかのように、深田作品の代作を世間にバラします。これは当時のスキャンダルとなり、評判の失墜した深田は東京に戻ることもできず、郷里の石川県にて十数年に渡る雌伏生活を送ることとなります。

雌伏時代の深田は、本人なりには忸怩たる思いもあったでしょうが、文壇先生として講演をしたり、俳句の会を催したりと、はたから見ればなんとも優雅に暮らしていたようです。こんなところにも深田の大胆で鷹揚な性格が表れています。後に志げ子は、石川時代の深田がいちばん幸せそうでしたと述懐しています。

こんな深田を見るに見かねた雑誌編集長が、山の雑誌に連載を依頼します。この連載が「日本百名山」として出版されると、深田は文学賞を受賞し、山の作家として返り咲くのでした。

茅ヶ岳にて急死するまでの十年ちょっとのあいだ、深田は山の作家として大活躍し、長年の夢であったヒマラヤ登山もシルクロード遠征も実現することとなります。

深田久弥という男、幸せだったのでしょうか。

幸せだったと思います。

人生のそれぞれの局面では、きっと苦い思いも経験したでしょう。しかしそのおかげで、自らが本来立つべき場所に立つことができたのです。
最期の時、深田は自らの人生を振り返って、いろいろあったが、いい人生だったなと思えたのではないでしょうか。

自由奔放で大胆な深田を支え、家を守り二人の子を育て上げた志げ子は、深田の死から七年後、交通事故にてこの世を去ります。深田の作家としての成功は、妻であり母であり深田の秘書でもあった志げ子のおかげだというのが、周囲のもっぱらの評価でした。

深田との離婚後、八穂は脊椎カリエスによる寝たきり生活にもかかわらず、その溢れる生命力とほとばしる才気により、童話作家として実に数多くの作品を残しました。住み込みの書生との夫婦関係的な生活も送り、深田より十一年長生きして、七十八才の生涯を閉じます。

八穂にも志げ子にも数多くの苦しい思いも辛い経験もあったのは間違いありません。しかしそれでも、いやそれだからこそ、本来自らが立つべき場所に立つことができたのだとも思います。

それぞれの人生を振り返ったとき、いろいろあったがいい人生だったなと、それぞれが思えたに違いありません。

こうして見ると、人生のある一時期の悩みなんて、結局はより良いなにかへのきっかけに過ぎないのかもしれません。

谷が深いからこそ山は高いのです。