聖地の空気 – 七面山
なんみょーほーれんげーきょーー
ドン!ドドン!ドドドドン!
なんみょーほーれんげーきょーー
ドン!ドドン!ドドドドン!
なんみょーほーれんげーきょーー
早朝の澄んだ青空の下、お題目が響き渡る。
ここは七面山の敬慎院。
となりの日蓮宗の総本山、身延山久遠寺に属した信仰の山である。
登拝口からまっすぐに信仰の道を登ってきた。
参道脇には、信者の寄進したベンチや休憩所、丁目灯籠がずっと続く。
途中にはいくつかの宿坊もある。
数時間かけて参道を登り切ると、目の前に大きな山門が現れた。
その山門をくぐったところが敬慎院だ。
七面山の山頂直下の平坦地に建てられた寺院群は、ここが山の上であることを全く忘れさせるほどに立派であった。
日蓮宗というと、毎朝太鼓を打ち鳴らしてお題目を唱えている信者の姿が思い浮かぶ。子どものころには、たいてい近所にひとりはハマっているおばさんがいたものだ。時には集団で太鼓を叩き南無妙法蓮華経と唱えながら町を練り歩いていて、子供心に異質なものを見る気持ちであった。当時は、いまでいう新興宗教にハマってしまった人たちのような扱いがあったと思う。
そんな、日蓮宗に対してなんの信仰心も持たない自分でも、敬慎院に足を踏み入れた瞬間、空気感ががらりと変化したのを感じた。
凛と張り詰めた空気の中、お題目が空に溶けて行く。真言はマントラだ。古来から唱えられ続けているマントラには、音の力が宿っている。太鼓のリズムに載せて唱えられていると、いつしかその陶酔感のある響きに捕らえられ、トランス状態に陥っていく。
日本国内の聖地は、ややもすると観光地になりがちだが、ここにはまぎれもない聖地の空気が流れていた。
特別の宗教心がない自分でもそう感じるのだ。長い山道を登った末にたどり着いた古の信者は、ここで一発でトリップしたことだろう。その瞬間に全てがわかったはずだ。
そんな人たちが、地元に帰っても日々お題目を唱え続けるのももっともなことである。参道には信者の寄進した休憩所や丁目灯篭がずっと並んでいる。宿坊にはいまも白装束の巡礼者が宿泊している。ここを登るのはほとんどが巡礼者であり、一般登山者のほうがはるかに少なく肩身が狭い。
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
敬慎院を通り過ぎ、山頂へ向かおうとすると声をかけられた。
振り向くと、立派なお坊さんが二人、明らかに信者ではないわたくしにも、わざわざ中から出てきて挨拶をしてくださる。
清々しいような厳かなような申し訳ないような、そんな気持ちになった。
「ありがとうございます」と答えて、ゆっくりと山頂へ向かった。