生き延びる自分を経験すること – 愛鷹山
鋭く尖った岩峰を巻くように付けられたトラバース路が、道の途中で完全に崩落していた。
これは…どうやって進むか…。
いや、どうやってなどと考える余地はない。選択肢はない。空に突き刺さるかのようにまっすぐ聳える岩峰を登って向こう側へ降りるのは不可能だ。トラバース路が落ちてる部分は岩にへばりついて超える、それしかない。
引き返そうか…一瞬そう考えた。しかし、ここまですでにかなりの距離、崩壊地を登ってきている。あの崩れかけた岩場を下るのは考えたくない。
大きく足を伸ばし、比較的大き目で安定してそうな岩の出っ張りにつま先を乗せ、崩れないようにと祈りつつ、恐る恐る体重をかける。
壁に沿って張ってあるボロ雑巾のような古いロープが頼りである。命を預けるには不安だが、雪に埋もれた頼りないホールドを掘り起こしつつ進むよりはマシだろう。上半身が自由に動かせるだけで、安定感がかなり増す。
ロープを軽く引き、抜けないことを確かめて力を入れる。足の下は、谷底までまっすぐ切れ落ちている。足元のもろい岩の出っ張りが崩れれば、崖の途中でロープにぶら下がることになる。そのロープが抜けるか切れるかしたら、真っ逆さまに墜落だ。
なんでこんなことになったんだ…と嘆いてみても、その理由は自分が一番よく知っている。これは、自らが場面場面で下してきた選択の結果なのだ。
そもそも今回は、山に行くのにあまり気乗りがしなかった。
せっかくの好天の休日だが、登りたい山が思い浮かばなかった。別に、近所の山でも登り慣れた山でもどこでもいいじゃないかとも思ったが、それではなんだかつまらなくも感じて、なかなか行く気になれなかったのだ。
それで、まあ、登ったことないし、一日で行ってこれて、展望もあるから天気いい日にうってつけだろう、と考えてここへ来たのだ。
軽く登って展望所から富士山を眺め、整備された一般ルートでいくつかある頂きの中の最高峰まで登り、スタンプラリー的な登頂を果たして戻ってくるつもりだった。
それがなぜ…いや、自分の選択の結果だ。わかってる。
最高峰から先へ続くギザギザの稜線。あれを見たとき、あそこを超えてみたいなとほんの少しだけ思った。簡単な道で登って降りてくるだけじゃ物足りないなと感じていた。この山で最も歩いてみたいところを歩かずに登頂したことにするのにはいささか抵抗もあった。もし雪道に踏み跡があれば行ってみようか、そう決めて歩いてきた。そして、降雪後ひとり通過したらしき踏み跡があったため、ここまで来たのだ。
自分で考え、自分で判断し、自分で決定してここまで来たのだ。
もしここで墜落したら、まず助からないだろう。このひと月でひとりしか歩いてない道だ。発見されることもないかもしれない。しかしそれが、自分で選択した結果なら、受け入れるほかない。それが登山の美しさである。
いまはただ、目の前のことに集中するだけだ。
選択できる中で最も安全と思われる出っ張りへ足をのせ、最も平和的と思われるバランスで手足に力を加えて、慎重かつ大胆に一歩を踏み出す。
ひとりでよかった…と思う。だれかといれば、怖いな〜とか、ヤバいヤバいとか言い合って、少しは気持ちがまぎれるかもしれない。しかしそれは集中力の低下にもつながる。同行者になにかあっても責任の取りようもない。
いや、だれかがいれば、どちらからともなく、やめとこうって話になったに違いない。そもそもここへは突っ込まなかっただろう。だが、必ずしもそれがいいことだとも思えない。
全ての神経を集中させてさらに一歩を踏み出す。これほど集中して一歩を進むことがあるだろうか。これほど全力でなにかに集中することなど、普通に生きていればないかもしれない。なにせ、踏み出す一歩に危うい命がかかっているのだから。
そうして空へ向かってそびえ立つ岩峰の壁にへばりつきつつ反対側へ回り込んでみると、その先のトラバース路も崩壊していた。まったくなんてことだ。なんでこんなことに…いや、わかってる。
このルートの崩壊が進んでるとは聞いていた。それはきっとヤセ尾根が続くんだろうと勝手に想像していた。しかしこれは想像とは全く違う。まさかトラバース路が消えてなくなっていて、切り立った岩壁をヘツリながら進むとは考えてもみなかった。
やれやれ。岩壁に張り付いて、ギザギザの岩峰をひとつづつ回り込んでいくのか。しかたない。もはやここまで来たら進むしかない。引き返すのも同様に困難だ。ここまで通ってきた道を再び通過するよりは、この先はいくらかマシになるほうに賭けたい。
もともとここへは来るつもりがなかったから、全く情報も集めていなかった。偶然と選択の結果、いまここにいる。それでいい。情報を集め過ぎなくてよかった。こんな道だと知っていたら、おそらくここへは来なかっただろう。過剰な情報は登山をスポイルする。
ここ数日ずっと、山を登ることに対して感じていたモヤモヤが一気に晴れた気がした。
生き延びるためには、持てる力を全力で発揮するしかない。体力、技術力、精神力の全てを動員しなければならない。あらゆることを自ら判断し、結果を自分の責任として受け入れなければならない。生き残るために必死になる瞬間、これこそ自分が山に求めているものなのだと気づいた。
ヘツリのトラバースを進んだ先には、氷の壁が待っていた。
高さは3メートルくらい、斜度は60度から70度といったところだろうか、垂直よりはいくらか緩い。壁面は完全に氷で覆われている。
前爪付きのアイゼンとピッケルがあれば、登るのはそれほど困難ではないだろう。しかしいまはそのどちらもない。壁の上からは、いつのものかわからない錆びついたクサリが垂れ下がっている。これに捕まって登り切る以外の選択肢はなさそうだ。
引っ張ってみる。抜けない。少々強く引っ張ってみる。抜けない。大丈夫だろうか。いや、大丈夫だと思うしかない。全ての力を出し切った先にはいくらかのギャンブルが待っている。それが登山だ。しかたない。
クサリを掴んだ手が冷たい。暖かな陽気だったので、グローブをせずに歩いていた。そのままこの崩壊地へ突入してしまったのだが、ここではザックを降ろすような動きは不可能だ。いまも、足の幅より狭い岩の出っ張りに乗っかって、岩壁の途中に張り付いているのだから。
冷たいが冷たいとも言ってられない。凍ったクサリを素手でしっかり握りしめ、氷の壁に足をかけた。登るのは3メートル、しかし落ちれば100m以上は墜落するだろう。墜落途中で、いま立っているわずかの出っ張りに引っかかるとは思えない。
壁に乗せた足に体重をかけ、クサリを強く引いて体を持ち上げる。岩の出っ張りに乗っかっていた下の足を目一杯上げて氷の壁に着地させると、力を込めてクサリを手繰り、反対の足をさらに上へ上げてクサリを手繰り、さらに一歩登りクサリを手繰り、もうもどれない、行くしかない、抜けるなよ抜けるなよと念じながら一気に行く。数秒の出来事のはずだが、長い長い時間だった。
氷の壁を登った先は、比較的安定した平地だった。といってもなんとか普通に立ってられる程度で、一般的な感覚では酷いヤセ尾根に違いない。しかしいまの自分にとっては、ようやく少しは気を抜ける場所だ。
まずは、バランスを崩さないようにゆっくりとザックを降ろし、凍りついて痺れた手をタオルで拭いてからグローブを付けた。あとはもう、これ以上の装備もない。このまま行くしかない。
どれくらい進んだのだろうと現在地を確認して愕然とした。まだ崩壊地の3分の1も進んでないではないか。目の前に続く風景も穏やかではない。ここまでの濃密な時間が、ここまでの倍以上も続くのか…。
この先の困難な道のりに思いを馳せていると、スマホにメールが来た。
「今日はどこに登ってる?」
どうやら、何人かでうちの近くの山に登っているようで、おそらく下山後の飲みのお誘いだろう。それにしても、山と街との距離を一瞬でなかったことにしてしまう通信機器というのは不思議な装置だ。便利は便利なんだろうが、それが登山を有意義にするものなのかと問えば、疑わしいと答えざるを得ない。
愛鷹山です。鋸岳を通過中。
そう短く返信し、生きて帰れたら飲みに行きますよ、と心の中でつぶやいた。
もういいよ、もう勘弁してくれよと思うものの、山は容赦なくチャレンジしてくる。
トラバース路は相変わらず消えて無くなっていて、雪の積もった斜面を蹴り込んで、足場を探しながら進む。頼りないクサリを頼りにしてよじ登らなければならない氷壁もまだある。穏やかな尾根道になり、ようやく終わったかとホッとすると、その先にはまた崩落したトラバースが待っている。
目の前のことただそれだけに集中して進む。生きて帰るにはそれしかない。
自らの力だけで自然と対峙するこの時間。これが自分にとっての登山の全てだ。
街の生活ではこんな瞬間はない。街の生活は街の生活で、いろいろたいへんなこともあるが、生命を危険に晒してするような行いはほとんどない。
必要なものは揃い過ぎてる時代だ。普通に生きていれば、衣食住に困ることもない。社会だとか文明だとかに守られた生活。生き残るために必死になることもない毎日。それは言い換えてみれば、社会や文明の奴隷になった暮らしなのかもしれない。
街の生活では、困難に当たったとき、命まで取られることはないんだから…と言って慰める人もいる。しかしそれがほんとうに幸せなことなのだろうか。動物園の動物たちは、見世物になるという仕事と引き換えに、安全な住処と不足のない食事を与えられている。
社会の一員としての最低限の責務さえ果たしていれば、現代社会では生き延びることができる。だが、それだけでは本当に生きている実感を手にすることができない。
体力、技術、精神力、経験、判断力、自らの持てるあらゆる力を使って、生き延びる自分を経験すること、これこそが登山に見出してる魅力であり、また閉塞した現代社会を生き抜くためにも必要としていることなのだ。僕にとって、登山はレジャーではない。
何度目かの安定した尾根道に到達した。ここまでは、この先にまた崩壊地があり、甘い期待を裏切られ続けてきたが、今度はどうやら大丈夫そうだ。尾根がどんどん広くなり、山頂まで続いているように見える。
ようやく終わりか。この最後の登りを登りさえすれば、一般ルートに出るはずだ。どうやら今回も生き延びることができたようだ。
果たして本当に危うかったのか、ギリギリだったのか、生き延びたのは単なるラッキーだったのか、それとも全く余裕だったのか、その答えはわからない。自らの判断の正否を知ることができるのは、それが決定的に間違っていた時だけだ。
さすがに精神的疲労が大きく、最後の登りはよたよたした歩きだった。そうして広々とした山頂に到達した時、今回の山旅は終わった。
ここからはなんの問題もない一般ルートで下るだけだ。もう命を危険に晒す瞬間もない。
下山口まで2時間くらいだろうか。いや、いつもなら最後は気持ちも切れて、力も入らずそれくらいかかるが、今日は全力で下山しよう。急いで下れば1時間半で降りられるはずだ。そこから家まで車で2時間、車を置いて駅まで15分、駅から電車で15分。4時間後にはみんなが飲んでるところへ到着するだろう。
こうしてまた街の暮らしに向かって、雪の降り積もった登山道を歩き始めた。