いつか夢見た理想郷 – 大福山 / 梅ヶ瀬渓谷

養老渓谷への玄関口となる小湊鉄道の養老渓谷駅。

どんな賑わいなのかと思ったら、駅前に数軒の店舗があるだけの寂れた静かな駅だった。

駅の裏手に回ると、これぞ「何も無い」という風景が広がっている。

今回の目的地は養老渓谷ではなく梅ヶ瀬渓谷だ。まずはこの道を歩いていく。

しばらく進むと梅ヶ瀬への入口があったが、そこを通過してさらに舗装路を行く。まずは大福山に向かう。

梅ヶ瀬の最奥部から大福山へ登る登山道は崩落のため閉鎖されていて周回ができないので、今回は山と渓谷それぞれをピストンする。

どこまで歩いても舗装路が続く。次第に標高が上がっていくがまだ舗装路だ。1時間登ると大きな駐車場があったが、その先も舗装路だった。

ようやく登山口らしき場所に到着し、登山を開始した。

と思ったら、10分もかからず山頂だった。

山頂神社の裏手の少し高くなった場所で山頂プレートを確認して下山。

再び舗装路を歩いて分岐までもどり、次は梅ヶ瀬渓谷へ。

梅ヶ瀬渓谷は渓谷とはいうものの渓谷らしくない。渓谷とは山に挟まれた川のことを言うのでこれも渓谷には違いないのだが、一般的な渓谷のイメージとは違う。

深い山に穿たれた険しい谷を流れ落ちる急流とは真逆で、穏やかな山と山の間を右に左にゆるやかな蛇行をくり返しつつゆらゆらと流れる水。沢よりも水たまりに近い。

遊歩道として地図に記載されている道は、道が無く岸を歩く区間も多い。沢を遡るものの、まったく沢登り感は無い。なにせ、ほぼ平坦な砂地なのだから。さすがに雨天後の増水時は注意が必要だろうが、通常は遊歩道として扱われているレベルなのだ。

最奥部まで意外と遠く、単調なので飽きてくる。紅葉の季節などは訪れる人も多いのかもしれないが、普段は静かなものだ。途中で引き返してもよかったのだが、それでも先へ進んだのは分岐点で目にした日高邸跡まであと2.8kmの案内板が気になっていたからである。

邸?だれか住んでたわけ?こんな沢を遡ったところに?なにかの間違いでは?

そんな好奇心が抑えられず、渓谷を遡っていく。

1時間歩いて、通行止めになっている大福山への分岐を通過した。日高邸跡はあと0.3km先のようだ。

沢を遡った奥地、ゆるやかな流れもいよいよ急になり、ここから先は本格的な沢登りになる、そんな場所に日高邸跡はあった。沢沿いのわずかな平坦地がそれだ。

最寄りの集落から1時間も沢を遡った場所に邸宅を構えて住んだ日高誠実とはどのような人物だったのか。気になったので案内板を熟読した。

日高誠実は、江戸時代も終盤の天保7年(1836年)に日向国高鍋藩の藩士の家に生まれた。

年表の一行目からびっくりだ。日向国?? ということは宮崎県?? 房総半島の生まれじゃなかったんだ…。

藩命で江戸へ遊学し、帰藩後は藩校の教授となった。藩校の助教授になったのが20歳、再びの江戸遊学を経て教授になったのが28歳の時だというから優秀な人物だったのだろう。

33歳で明治維新を迎える。

明治2年、高鍋藩に上下議事院が設けられると議員となり、下院議長も兼務して藩政に参与する。やはり有能な人だったのだ。

明治3年には高鍋藩権大属に任ぜられて上京し、明治5年に陸軍省へ出仕することとなった。

陸軍省で14年間勤めた後、50歳の時に職を辞し、その前年に払い下げを受けた官有地での理想郷の建設に人生の後半をかける。

それがここ千葉県市原市大久保、大福山麓標高296mの地だ。

日高誠実はこの地に梅や橙など1600本余りを植樹し、梅ヶ瀬と名付けて名勝地にすることを夢見た。また、邸宅の裏に書堂を作り、講師を招いて近隣の子弟の教育にも努めた。塾生は延べ千人にもおよび、多くの地方人材を輩出したという。

今では静かな時の流れる山深いこの地が、地域の教育の中心として活況を呈していた時代もあったのだ。

50歳で梅ヶ瀬に移り住んだ日高誠實は、80歳で亡くなるまでの30年間をこの地で過ごした。その間には日清日露戦争があり、享年の前年には第一次世界大戦が勃発している。

江戸、明治、大正を生きた日高誠實は、人生の後半には激動の時代に距離を置き、渓谷の奥地でその生涯を終えた。優秀な人物であったとともに、ずいぶんな変わり者でもあったことだろう。

時に、優秀過ぎる人は隠遁する傾向にあるという。日高誠實もそのような人物だったのかもしれない。

2024年2月