Mountain Addicted – 笊ヶ岳
朝が来た。小笊の上の富士山が雲の海に浮かんでいる。日の光に照らされて世界が黄金色に輝く。振り返ると悪沢、赤石、聖に上河内がほのかに紅く色づいている。
この山頂にひとりきり。昨日の夕景も、今日の日の出も独り占め。ここまで苦労して登ってきた甲斐があったというものだ。
笊ヶ岳までの登りは体力勝負だった。
広河原で沢を渡ってからは、ひたすら登りだ。登るにつれて角度は急になっていき、登っても登っても終わりの見えない急登がつづく。檜横手山でいったんなだらかになり、ひと息ついたのもわずかのあいだ。再び、それまで以上の急登が始まった。手を使わなければ登れないような急な登りだ。それがいつまでも続く。荷物が軽ければまだしも、テント装備を担いでいると顔が歪む。ずっと樹林帯で、景色はまったく見えない。どれだけ登っても、まだまだ先は長そうだ。いつ終わるともしれない登りを、ただ黙々と登るしかない。こんなときは先のことは考えず、一歩一歩を淡々と登るほうがいい。歩いていれば、いつかは目的地に到着できる、はずだ。
苦しい登りもすっかり当たり前になったころ、左手に視界が開けた。崩壊地の向こうに聖岳と上河内岳が見えた。登り始めて8時間半で、この日最初の展望が開けた。
ここまで来ればあと少しだなと思ってから、まだまだ登り、ようやく布引山に到着した。これほど時間と体力を消耗するとは思ってもみなかった。
木々に囲まれ展望もなく、単なる狭い空き地のような布引山の山頂でぐったり休憩していると、テント装備を担いだ青年が登ってきた。彼とは、軽やかにピストンする日帰り組を横目に、抜かしたり抜かされたりしてここまで登ってきたのだった。
青年は布引山に荷物をデポして笊ヶ岳へ行くという。自分は担いで先へ進む。今日はここでお終いにしたいなって気持ちも少なからずあったが、ここまで来たんだからあと少し、目的地まで行ってやろうじゃないか。
布引山からはいったん鞍部へと下る。どんどん下っていく。こんなに下ると登り返しがたいへんだと思うが、それでも下っていく。そして鞍部からは最後の登り。もう足が上がらず、ゆっくりゆっくり進んでいく。
背の高い木々に囲まれた鬱蒼とした樹林帯から、しだいに樹木が低くなり、身長よりも低くなって頭上に空間が開けたところが笊ヶ岳の山頂だった。ようやくだ。自分史上最高級に疲れた登りであった。
山頂には先ほどの青年と、ランカン尾根を登ってきたソロの女性が、目の前の南アルプス南部の山々を眺めていた。この時間でも雲に隠れず、姿を見せてくれているのは、ここまでがんばってきた我々への、山の神様からのちょっとしたご褒美であろう。
いつまでも美しい景色に、お二人とも去りがたいようすだったが、日も傾いてきたころ布引山へともどっていった。この後は、もうだれも登ってくることはないだろう。
そこからは山頂貸切で、翌朝を迎えたのであった。
朝日を浴びて小笊までピストンし、最後にもういちど笊ヶ岳からの展望をしっかり目に焼き付けたら、その先の稜線へと足を踏み出した。
ここから先もひとり旅。だれも追いかけてこないし、おそらくだれともすれ違わないだろう。ひとりで静かに山に浸って歩く。荷物がもうちょっと軽ければ快適なのだが、こればっかりはしょうがない。山小屋もないこの地では、お金はまったく意味を持たない。衣食住を背負って歩くのがこの山域の宿命である。
稜線に出たので、昨日ほどの長い長い急登はない。下って登って下って登ってを繰り返しながら進む。
登山地図のコースタイムが厳し目なのはわかっていたが、この区間は厳しいというより、間違ってるだろというくらい短い時間が記載されていた。前日の疲れに重荷もあって、予定よりどんどん遅れていく。日程に余裕をもたせておいてよかった。二日でも抜けれるだろうとは思ったが、万全を期して三日をとっている。二日だったら、今日中に下山して老平までもどって運転して夜遅くに帰宅して明日から仕事だ。
伝付峠に到着したのは午後3時半だった。このまま下山したとして、今日中に帰宅できるか怪しい時間だ。
行程に余裕があるってのは、気持ちにゆとりができていい。伝付峠の展望台から、目の前の悪沢岳を眺めて日が落ちるまでの時を過ごした。
三日目の朝。今日も天気はよさそうだ。雪を戴いた頂が朝の光に輝いている。
下山するだけなのでのんびりしててもいいのだが、午前10時のバスを逃すと、次は午後2時の便になってしまう。バスに乗らずに歩いたら4時間はかかるだろう。バスを降りてからも老平まで1時間以上は歩かなければならない。伝付峠では昨日じゅうぶんのんびり過ごしたので、今日はさっさと下山することにした。
下るにつれて道が荒れてくる。沢沿いはルートが不明瞭だ。荒れた旧道とそれよりはましな新道が交わっていて、目印が旧道についていたりするからまぎらわしい。徒渉もなんどもある。足に力が入らず、何度もよろけて手をついた。つかれた足にはなかなか厳しい下りだった。舗装路に出ると、ひっきりなしに通過するリニア工事の大型車両をやり過ごしながら歩かねばならない。
地図のコースタイムが厳し目だから心配していたが、なんとか予定通りにバス停までたどり着いた。そして、定刻よりちょっと早く来たバスの三人目の乗客となった。
車窓の風景をぼんやり眺めていると、この三日間の充実した山行の記憶がじわじわとよみがえってきた。