山と祈り – 榛名富士 / 相馬山

あまり歩かれてなさそうな山道を1時間ほど登ると山頂に着いた。

ん?見えない…?

東側は視界が開けているが、西側の眼下に広がっているはずの火口湖は木々に隠されて見えなかった。

んー、ざんねん。

山頂から少し下り、ロープウェイ駅の展望台まで行ったが、ここも東側は樹林であった。湖の端っこが見えるが、ロープウェイに遮られて良い景色だとはとても言えない。ロープウェイに乗れば、なかなかの眺めが期待できそうだが、それ以外では火口湖のよく見える場所はなかった。

なんだ…。がっかり…。

反対側の掃部ヶ岳なら、途中で素晴らしい榛名湖が望める。今回は対岸の榛名富士からそれを眺めようと登ってきたのだが、まったくの思惑外れだった。

榛名湖を眺めながら食べるつもりで買ってきた登利平の鳥めし弁当を、運行前の静かなロープウェイ駅の休憩所で食べた。

下山路にもまったく展望はなく、榛名湖畔まで降りてしまった。掃部ヶ岳が湖面に写り、逆さ掃部ヶ岳になっている。

車道を歩いて次の山へ向かう。立派な道路で分断されているので、榛名富士から別の山に登るには、車道を歩くほかない。

しばらく舗装路を歩き、湿原の遊歩道から登山道へ入り、すぐに尾根道に乗った。

樹林の切れ目から、先ほど登った榛名富士が見えた。典型的な富士山型の山だが、富士山と比べれば明らかに低く、なんともほっこりする形だ。

「富士山は登る山じゃなくて見る山だ」なんて言葉を耳にすることがある。「富士山には興味がない、登らない」と言う山好きも多い。なに言っちゃってるんだよと思う。富士山は日本国第一の霊峰であり、古来より信仰を集める中心の山。その頂に向かうこと自体が、非常に大きな意味を持つ。富士登山は、古来より脈々と続く信仰の対象としての山と、その精神を受け継いで発展してきた近代登山の両方の文脈において、最も目指すべき第一位の山なのである。

まあ、富士山に登らないと宣言しちゃう気持ちもわからなくはない。そういうのはいわゆる中二病ってやつなので、大人になれば醒めるだろう。

全国各地の富士山に似た形の山は、○○富士と呼ばれて地域の人々に親しまれてきた。富士登山へ行くこと叶わぬ多くの人々の信仰の拠り所にもなってきただろう。手元の文献によると、全国には397もの○○富士があるらしい。

榛名富士もそんなご当地富士のひとつなのだが、登った感想を正直に言えば、見るだけでもまあいいかな…と思う。

急坂を登ると相馬山の山頂に着いた。狭い山頂には、祠やいくつもの石像が祀られていた。榛名富士にももちろん立派な社があった。やはり、山頂というのは特別な場所なのだ。

こうした、山の頂は聖地であり、そこへ登ること自体が祈りであるという感覚は、世界的にみてどれくらい一般的なのだろうか。ヨーロッパの山々には、隔絶された頂の修道院など以外に、一般の人が目指す信仰的な造作物はあまりなさそうだ。バリ島では山頂に祠があり、山は信仰の対象である。インドでも山の上に寺院があり、高山は神々の住処とされている。インディオやアボリジニにとっては、山は聖地だが、聖地であるがゆえに登山の対象となることはないようだ。

古より脈々と受け継がれてきた、山に対する信仰心と山に登るという行為の意味。その世界各地の共通項を探れば、それは即ち人類のDNAに刻まれた記憶なのであろう。

そして、様々に哲学的な回答を与えられている「なぜ山に登るのか?」という問いへの科学的な答えも、この延長線上にあるのは間違いない。