北アルプスの四日間 その5

涸沢の夜は賑やかだ。

カラフルなテントの群れに灯りがともり、艶やかに煌めいている。そこかしこでいつまでも、楽しげなざわめきが聞こえている。無数の話し声が集まって、ざわざわという音の塊になり、カールを優しく包んでいる。

隣りのテントでは夜の8時から宴会が始まった。おいおい…とは思ったが、テント場で遅くまで騒いでるのにいちいち目くじらを立てるほど狭量でもない。厳しかった一日もようやく終わり、安堵と興奮の入り混じった気持ちなのだろう。そこでついつい盛り上がり過ぎてしまうのもよくわかる。

賑やかな夜の音を聞きながら、目を閉じて静かに横になっていた。

さすがに10時を過ぎると、いい加減にしろ!と注意する人も現れ、涸沢もやがて夜の眠りについた。

day 4

穂高の頂がモルゲンロートに染まる。

なんだよ…。晴れてるじゃないか…。

朝起きてまず第一にそう思った。四日目の天気が崩れる予報だったから、西穂までの縦走を断念したというのに。

まあ、いまさらしかたない。いまなら行く気満々だけど、あの時は心身ともに疲れ切っていたからな。

それにしても、下山するだけにしては惜しいほどの空の色だ。

横尾から徳沢、明神、上高地と、がっちり整備された高速登山道ばかりを歩いて帰るのはもったいない。そんなに急いで帰る必要もない。

再び奥穂へ登り、吊尾根から前穂高岳経由で上高地に下山するなんて魅力的だが、さすがにもうザイテンを登りたくはない。それにそこまで行ったら、やはり西穂へ行きたくなる。

そうだ、パノラマコースってのがあったな。パノラマっていうくらいだから、それなりに展望もあるだろう。

そうして、横尾へと続く道へは向かわず、パノラマコースへと踏み出したのであった。

登山地図では破線ルートだが、特別危険な道ではない。よく整備もされていて歩きやすい。

朝日に染まる穂高の峰々に囲まれた涸沢が、どんどん小さくなっていく。ん? ずいぶん登ってないか? 下山だというのに、どんどん高度が上がっていく。どこまで登らせるんだよと思うものの、登りはまだまだ続いている。

尾根の向こうに槍ヶ岳の三角錐が姿を現した。そういえば、この四日間ずっと槍が見えていた。見えててくれて、ありがとう。

さらに高度を上げていくと尾根に乗った。ここまで登って初めて、尾根の反対側も見下ろせる。梓川が遥か下を流れている。おいおい、あんなとこまで下るのかよ…。長い下りになりそうだ。というのに、標高はさらに上がっていく。

ようやくにして、扇の耳への分岐まで来た。ここからやっと下りが始まる。だがまだあと少し、扇の耳にも登っておく。

分岐からはやや荒れた急な登りであった。登山道は狭く、両側に茂った木々の枝が頭の上まで伸びてきている。ザックは分岐にデポしておきたかったが、サブザックを持ってきていないのでテント泊装備を担いだままで登っていく。重荷でここを下るのはいやだなと思いながらも、しかたないのでそのまま登る。

途中で賽の河原に寄り道した。目の前には前穂が大きく聳えている。今回は行けなかったが、必ずあそこにも登ろう。

賽の河原からの下りでは、ルートを見失いゴロ岩地帯をうろうろしたが、無事に登山道に復帰して、扇の耳を目指して再び登る。

うるさい木々をかき分けかき分け、荒れた急登を登っていくと、急に視界が開けた。

槍から穂高の稜線が。

目の前にくっきりと。

すげえ…。ここまで歩いてきた稜線が全て、すぐ目の前に広がっている。まるでジャンプしたらあそこまで飛べそうなくらい近くに。

扇の耳からさらに先へ目をやると、鞍部の向こうに平坦なピークがあった。

あそこが扇の頭だな。あっちのほうが槍穂に向かって突き出ていて、さらに眺めがよさそうだ。山頂にはケルンもあるし、山頂手前のザレ場には踏み跡がある。あそこまでは行けるのだろう。

ザレ場までたどり着けばあとは簡単だが、そこまで、鞍部への下りとその先の登りは、ハイマツのヤブに覆われていた。

いちおう踏み跡らしきものはあるし、過去にヤブ払いされた形跡もある。が、ハイマツは濃く、距離は短いが、ほとんど泳ぐようにして漕がなくてはならない。

さすがにテント装備でこのヤブ漕ぎは大変なので、ザックは扇の耳にデポしておく。それほど遠くはないから、カメラさえ持っていけばいい。

とりあえず鞍部へ向かってハイマツのヤブを泳ぐ。これがどこまで続くかわかってなければ、心折れるだろうヤブ漕ぎだ。時折、ヤブに絡め取られて身動きが取れなくなる。

なんだろう、このわくわく感は。知らない世界へ踏み込んでいくときの、期待感で心がいっぱいになったこの気持ち。ようやくいつものペースがもどってきたようだ。

鞍部までのわずかの距離を、苦戦しつつも楽しんで下った。

その先もヤブだったが、左側に下りつつ巻く道が付いていた。道といっても薄い踏み跡程度で、トラバースしながら登ったり降りたりしてるので、行きは上を目指せばいいが、帰りはあらぬ方向へ降りていかないよう注意しなくちゃなと思う。

そうして、耳から見えてたガレ場に出て、そこを登り切ると、広々とした山頂に着いた。

槍から穂高の稜線は、先ほどよりもさらに近く、手を伸ばせば触れられそう。遮るものは何もない。あまりに近すぎて、端から端までを一枚の写真に収められない。槍穂の展望台と呼ばれる場所はいくつもあるが、こここそが最高の槍から穂高の展望台である。

右端には槍ヶ岳の尖った頂。あそこに登ったのが、もう遠い昔のよう。そこから続く南岳への穏やかな稜線。その先の大きくえぐれた大キレット。あのあたりは黙々と足早に通り過ぎてしまった。中心にはどっしりとした北穂高岳。あそこも何かに追われるようにして通過した。北穂から涸沢岳、奥穂高岳と連なる穂高の山々。ふと奥穂のカオスな山頂を思い出して苦笑いがこみ上げる。穂高に囲まれた涸沢カール。二晩を過ごした華やかなテント場。そして、山並みに隠れて見えないけれど、奥穂の向こうには、あのジャンダルムがある。

この四日間のあれこれが、心の奥から湧き出してくる。辛かったとき、楽しかった瞬間、迷いも幸福感も。

ここがほんとに旅の終わりの場所だ。

終わりよければすべてよし

ここから先は下るだけ。標高差1000m。ゆっくりいっても三時間というところだろうか。梓川にかかる橋を渡れば、そこは人の世だ。徳沢に着いたらなにか食べよう。混んでるかな、混んでたらやめようか。なにを食べよう。いや、それより風呂に入りたいな。ヒゲを剃って、歯も磨きたい。

下界のあれこれを思うと、帰るんだなという気持ちになる。それは切なく、そしてちょっぴり嬉しい。

そこまであとわずか。

もう一度最後に、槍から穂高へと、端から端までを見渡して、この景色をしっかり目に焼き付けてから、回れ右して神々の地を後にし、人の世へと歩き出した。