武田勝頼

武田信玄といえば、山梨県内では唯一無二の郷土の英雄です。

銅像はあちこちにあるし、隠し湯もあちこちにあるし、餅やら飴やらお菓子にもされてるし、巾着袋の名前にされてたりもします。
ウソかホントか、信玄と呼び捨てにするのは良く思われず、信玄公とお呼びしなければならないとも聞きます。

でも、その子勝頼の評判はいまひとつです。無能とさえ言われてしまっています。

信玄の跡を継ぎ、信玄以上の拡張戦略で領土拡大したあげく、長篠の戦いでは無謀に突撃して大敗。外交センスのなさにより、周囲を全て敵に回してしまう。さらには領土拡大最前線の遠江の城を攻められても、援軍を出せず見殺し。
これによって人心は離れ、織田徳川連合軍に攻め込まれると、家臣がなだれをうって寝返ることになります。

まあ、これだけ見れば確かに無能と謗られてもしかたないですね。でもこれは、史実を知っている後世の目で見た評価であり、元は敵方だった側室の息子である勝頼のおかれた状況では、やむにやまれぬ事情もあったでしょう。まもなく本能寺の変が起こるなどとは、当時の誰もが予想だにしなかったはずです。
戦略眼や外交力は劣るけれど、勝頼は父信玄とは違って戦上手であったともいいます。

織田徳川連合軍に加えて寝返った家臣団にも追われた勝頼は、撤退先として向かった大月城主小山田氏にも裏切られ、西からも東からも攻められて逃げ場がなくなります。
このとき勝頼が向かったのは、かつて武田氏が滅んだ地、天目山でした。このときすでに最期を感じてたことでしょう。

天目山へ向かった勝頼一行はその手前で進退極まり、最後まで付き従ったわずかの家臣が決死の防戦をして時間稼ぎする間に自刃しました。

後に、その勝頼最後の地に家康が創建したのが景徳院です。

甲州街道の通る甲斐大和駅から徒歩30分ほど、大菩薩山系の山麓にあり、大鹿山から下ってくると景徳院の裏側へ出ます。最後に勝頼が目指した天目まで、あと一時間ほどのところです。

広い敷地の立派な寺院で、境内には勝頼親子や家臣の墓もあります。

武田氏というのは、戦は強いが頭の足りない猪突猛進田舎武士とずっと思っていましたが、それはそれ、武田には武田のドラマがあったことでしょう。
山梨の山に通ううちに、武田氏に、そしてなぜか憎めない勝頼に、関心を抱くようになりました。

山岳小説で知られる新田次郎は「武田信玄」「武田勝頼」という歴史小説も著しています。

新田次郎も山つながりで武田に興味を持ったのでしょうか。それとも新田小説の主人公に共通するなにかを、信玄勝頼親子の中に見出したのでしょうか。

山岳小説家と言われるのを非常に嫌った新田次郎が、好きな自作として挙げるこの小説、次の長い休みに読んでみようかな。