古代の浪漫と過酷な現実 – 吉野ヶ里遺跡

1989年2月、吉野ヶ里遺跡が発掘された当時、ついに邪馬台国発見か!と話題になった。吉野ヶ里フィーバーが巻き起こり、2ヶ月間に100万人が訪れたという。あれから37年、吉野ヶ里は邪馬台国ではないというのが考古学界の結論のようだが、国内最大級の弥生時代の集落跡であり、非常に重要な遺跡であることに変わりはない。

脊振山地の南麓から佐賀平野へ向かって延びる段丘上に吉野ヶ里はある。思ったよりも長閑な田舎だ。まあ、田舎で人の活動があまりないからこそ、大規模な発掘が可能だったのだろう。現代社会ではやや不便でも、稲作の始まった弥生時代には定住するのに適した土地だったのだ。

遺跡は保存のために埋め戻され、その上に集落を再現して吉野ヶ里歴史公園として一般公開されている。

敷地は綺麗に整地され、歩路はコンクリートで固められ、柵列や住居、主祭殿などは魏志倭人伝の記述を元にした復元だ。つまり、見えているものすべてがフェイクとイマジネーションなのである。

釈然としない思いで見学していたが、詳しく見ているうちに、心の奥底に古代の浪漫が芽生えてくるのを感じた。

たとえこれらがフェイクとイマジネーションでも、2000年前のこの地に人々の営みがあったことには違いない。復元集落だって荒唐無稽な想像物ではなく、現地の遺構と古書の記述を照らし合わせて類推した考古学の成果である。

弥生時代前期から弥生時代後期まで、おおよそ紀元前5世紀から紀元後3世紀までの700年間の遺構が吉野ヶ里では発掘されている。

700年間!今から700年前といえば鎌倉時代後期、鎌倉幕府が滅亡する直前である。そこから現代までと同じだけの長い時間の遺構や遺物が段階的に残っているのだから、吉野ヶ里には弥生時代の集落の変遷を見ることができる。

初期は定住者の小さなムラが散在していたに過ぎないが、次第に大きなまとまりとなり、やがて周囲に堀を巡らせたクニへと発展していく。復元されている集落は弥生時代後期、吉野ヶ里の最盛期の姿だ。

環壕と柵列、つまり周囲に堀を巡らせ柵で囲ったのは防衛のためである。

集落の内部にはさらに板壁で囲われた二つの内郭があり、南は政治の中心、北は祭祀を執り行ったと考えられている。物見櫓が建てられ、集落出入り口が鍵形に折れ曲げたられたことも合わせて、これはもはや城の原型だと言える。

これだけ防衛に重きを置いているのは、争いが絶えなかったからに違いない。吉野ヶ里で発見された遺骨には、刀傷のあるものや矢尻が刺さったままのもの、頭部が無いものもある。後漢書東夷伝や魏志倭人伝に記述のある倭国大乱の時代とも重なるため、なんらかの関連があるのではとも推測されている。

吉野ヶ里では、死者は甕に入れて埋葬された。集落の北側にある墳丘墓は、埋葬された14基の甕棺の上に盛土をして人口の山を築いたものだ。

共同墓地に密集して埋葬された他の甕棺とは明らかに扱いが異なり、青銅の剣や硝子の管玉といった高貴な埋葬品も発見されていることから、王の墓ではないかと考えられている。この時代にすでに明確な身分の差があったこともわかる。

弥生時代というと、なんとなく原始的で長閑な生活を思い浮かべてしまうが、厳格な身分制度に縛られてクニに属し、クニとクニとの争いは絶えず、増える人口に食糧生産は追いつかず、いつでも死がそこにあった時代…。

そう考えると、あまり幸福な時代ではなかったのかもしれない。

そして現代に思いを馳せれば、規模は巨大になり仕組みは複雑になり手段は高度になったものの、人類のやってることはあまり変わってないなとも感じる。

2025年12月

佐賀県

Posted by azuwasa