進化の法則、あるいは幸福の理由 – 阿弥陀岳

さて、どうしようか。

目の前の岩稜を登り切れば山頂だ。フリーでも登れるだろうが、もしも途中で進退窮すると、撤退はやっかいなことになるだろう。
岩稜を巻いても稜線に出るはずだが、ここまで登ってきた人たちはみな岩稜へ行くようで、巻き道にトレースはない。雪崩の巣窟の中岳沢へと落ち込む急斜面のトラバース、しかもノートレースで雪の深さもわからない。ここを突破するのはさすがに躊躇する。

どうしようか。ガスもずいぶん出てきたし。

行くか戻るか、行くならどっちを行くか。決断できず迷っていると、二人組の男性とソロのおじさんが上がってきた。

おじさんは岩稜に取り付き、少し登って降りてきた。やはり、登れるけど降りれなくなりそうだとのこと。二人組はトラバースではなく岩稜を行くことにして、ザイルを準備して登り始めた。

その様子をぼーっと眺めていると、おじさんが話しかけてきた。

「登るの?」

いや、やめときます。無理するところじゃないですし。

天気がよければ登ってみるのだが、さすがにこの状況では突っ込む気になれない。

「そうだよな、じゃあ気をつけて降りよう」

阿弥陀岳北稜、第二岩稜基部で撤退。

ここは無理するところじゃないとはいえ、ここまでもそれなりに無理して登ってきた。完全に雪の付いた第一岩稜を、アイゼンの前爪とアックスでよじ登ってきている。これを下るのはたいへんだろうと思いつつ登った雪の壁を、これから下らなきゃならないのだ。

おじさんが先に下り始めた。すぐに下ると雪をぼろぼろ落としてしまうので、時間を空けておじさんが見えなくなってから、自分も下り始めた。

登るのはなんとかなっても、下るのはたいへんなのが登山の常である。

登るのは上だけを見続けていればいいが、下りはそういうわけにいかない。動きを止め、振り返って肩越しに下るルートを確認する。前爪を雪面に刺した足元は、崖の途中で宙に浮いているかのようだ。
実際の斜度は70度くらいだろうが、体感的にはほぼ垂直である。そんな雪の壁に張り付いてるだなんて、冷静に考えるととんでもないことしてるよなとおかしくなってくる。

ピッケルを雪面に振り下ろし、下方向へ力をかけても抜けないことを確かめる。左足を下ろし、つま先を載せられる程度に雪を削り、前爪を蹴り込む、同じようにして右足も下ろし、両足が安定してることを確かめてからピッケルを抜き、少し下にまた振り下ろして効きを確かめる。左手は壁の表面の雪を掴んでいるだけだ。ピッケル一本のみなので、動くときは二点支持になってしまう。当然だけど、確保もない。

表面の雪は柔らかく、アイゼンがしっかりささらない。力をかけると足元が崩れてしまい、ピッケルを握る手に力が入る。わずかの摩擦力で雪壁にとどまっているが、摩擦力が重力に抗えなくなった瞬間、谷底まで滑り落ちていくことになる。

普通に考えたらとんでもない状況なのに、なぜだかワクワク感が止まらない。

恐怖心は全くない。ここで怖がって足がすくんでしまえば、無事ではすまないはずだ。きっといま脳内ではアドレナリンがどばどば放出されていて、恐怖心が抑えられているのだろう。疲れも感じない。朝からほとんどなにも食べてないが、空腹感もない。いまこの瞬間に不必要な体の機能は全て停止して、ただ生き延びることだけに、力と意識が集中していく。変化の流れに乗っていれば、肉体は自然にうまいことやってくれる。

心に迷いが出たときが危ない。こんな状態を早く脱したいと思い、急いだり焦ったりしたとたん、危険がすぐ足元にやってくる。全ての動きを確実に、ひとつづつ順番に、自分のペースで。それがどんなに果てしないくり返しだと感じても、一歩づつ確実に進んでいれば、いつか必ず目的地に着く。だからこそ、いまこの瞬間に尽くすのだ。そうすることの大切さを教えてくれたのも、山である。

なんだろう、楽しくてしょうがない。

目的の山には登頂できなかったが、この撤退戦には登頂以上の楽しさがある。自分の持てる装備と技術と体力と、そして精神力と集中力と、その全てを最大限に発揮して下っている。登山の真髄はここにある。この瞬間を体験することこそ、山が人を惹きつけてやまないたったひとつの理由だ。

そして人は、そんな極限状況にチャレンジし、それを乗り越えることに無上の喜びを感じるようにできている。なぜなら、危険に挑んで克服していくことなしにスキルアップすることはなく、スキルアップしなければ死が待っているだけだというのが、誕生以来ずっと人類が於かれてきた状況なのだから。挑戦と克服、そこにこそ、人の個人としての成長と、種としての進化の源があるのだろう。

危険を伴う挑戦に向かわせるために、肉体は心に報酬を用意している。人がなにか困難な挑戦をやってのけたときには、脳内麻薬が大量に放出されている。困難の克服は快楽なのだ。そして、困難であればあるほど、達成したときの快感も大きい。

幸福はここにしかない。進化の戦略として、人の体はそうデザインされているのだからしかたがない。安定や平穏は幸福ではない、ただの退屈である。最低と最高の間を優雅に行き来するところにこそ幸福があるのだ。

などと、いろいろ考えることができるのも、無事に下山した後のことである。下っている最中は、ただ足下の一歩のことで精一杯だった。

時間をかけて第一岩稜をクライムダウンし、ジャンクションピークにたどり着いた。ここから先もまだ急な斜面を下らなければならないが、もうミスするようなところはない。どうやら今回も生き延びることができたようだ。

あのまま登り続けて登頂するよりも、ずっと経験値を積んだ気がする。登はんよりも撤退戦のほうが難しかったのではないだろうか。

「お~、帰ってきた!よかったよかった」

行者小屋までもどると、先に下ったおじさんが待っていた。

「いや~、あの下りは怖かったねえ〜」

他にどうしようもない状況なので下ってきたが、もう一回やれって言われても、躊躇してしまうような下りだ。

「あそこまで登れたから今回はこれでいいや。月末にまた来るよ。その時は文三郎で登るわ」

この人も山の魅力に取り付かれて離れられない人なのだろう。

「それじゃあ」と言い残して、おじさんは美濃戸へと向かっていった。

ぼくは今日初めて腰を下ろし、アイゼンを外してコーヒーを飲んだ。

八ヶ岳

Posted by azuwasa