恋こがれた山へ – 阿能川岳
この数年間ずっと登りたいと思いつづけて、未だ叶わぬ山がある。阿能川岳という山だ。
残雪期限定の藪山で、三月後半の二週間しかチャンスがない。年度末で仕事の忙しい時期でもあり、天気の良い日を選り好みしているとあっというまに逃してしまう。今年は暖冬の影響で残雪が少なく、いつもの年よりひと月くらい季節が早いと聞いてあせった。ここを逃すとまた一年後だ。
三月に入ったばかりの週末、土曜の天気はイマイチだが、日曜は悪くなさそうだ。距離が長いので土曜に登って日曜は休息したかったが、そんな贅沢は言ってられない。今年こそ登るのだ。
県道270号線沿いの駐車場に車を停めた。早朝にもかかわらず、すでに他の車が停まっている。入山者がいるようでホッとした。数日前に降雪があったので、踏跡が消えていたら初めての場所をひとりでルートファインディングするはめになっていた。
先行者の踏跡を辿って入山する。雪は思ったより多い。強引に直登してる箇所もあり、けっこうな角度で登っていく。
赤谷超で稜線に出た。ここまで一時間、予想より時間がかかっている。
しばらくは穏やかな稜線だ。やわらかな朝の光が白い雪を柑子色に染める。
起伏はゆるやかだが、積雪は少なくない。すでに気温は上がり始め、踏み抜きが多くて体力を消耗する。アイゼンをわかんに変えた。これでいくらか歩きやすくなるだろう。
踏跡を見る限り先行者は二名のようだ。この踏跡が今日なのか昨日なのかわからないが、二人ともが途中で引き返してない限り、山頂まで道はつづいていることになる。
稜線を二時間ほど歩いたところで先行していた登山者に追いついた。ベテランの雰囲気漂うソロの男性で、知人の長谷川さんにそっくりだった。本人かとまじまじと眺めてしまったが、長谷川さんは登山はしない。
すぐにもうひとりの登山者にも追いついた。メガネをかけた若い兄ちゃんだった。二人の登山者に追いついたということは、この先は誰も歩いていないということだ。降雪後は今日まで他に誰も入山していない。つまり、ここから先は踏跡なしになる。昨日来なくて良かった。
ここから核心部に入る。尾根は痩せていて細かいアップダウンがあり岩場も多い。木の根が出ている箇所もある。わかんでは歩きづらいと思われるのでアイゼンに付け変えた。長谷川さんとメガネ君もスノーシューをアイゼンに変えていた。
さて、核心部へと突入するのだが、まったく初めてなので先頭を行く自信はない。メガネ君も初めてのようだ。そういうわけで、過去に登った経験のある長谷川さんにラッセル隊の先頭をお任せし、その後につづいた。
無雪期は藪山のこの山に、もしも登山道があったらそんなに難しい山にはならないだろう。尾根は狭いが、それほど危険な場所があるわけではない。岩場といっても、越えるのにクライミング技術が必要なわけではない。
しかし雪が積もっているとそうもいかない。雪庇の迫り出した痩せ尾根は、足の置き場を誤るとどこまで落ちるかわからない。とにかく尾根の中心を行かなければならない。超えられない大岩は撒くのだが、右から巻くか左から巻くか雪の状態を見て判断を迫られる。踏み抜いたら危険なのはわかっているが、わかんもスノーシューも使えない。痩せ尾根のラッセルは体力も精神力も消耗する。
「あとひとりで先頭?」
我々が核心部で苦戦してると、新たに追いついてきた登山者に声をかけられた。がっしりした大柄の男性で、いかにもオールドタイプな山男だ。オレンジ色のマムートのパンツが、これ以上はないほど雪山に映えている。
オレンジマムートさんに道を譲ると、30mほど先でよれよれになってラッセルしてた長谷川さんを猛然と追撃していった。
強かった。オレンジマムートさんは強かった。ラッセル隊の先頭になると、パワフルにトレースを付けていく。とはいっても猪突猛進ではまったくなく、難しいところでは立ち止まり慎重にルートを判断していく。よれよれのその他ラッセル隊は、オレンジマムートさんに完全におまかせだ。
それにしても長いな、この核心部はずいぶん長い。この苦難はいつまでつづくのかとうんざりしながら歩いていたが、いつのまにか尾根が広くなっていた。
最後の登りをラッセルしていくと、三岩山に到着した。ようやくだ。
ここまで来て初めて谷川連峰が望める。長かった。でも、まだあと少しある。
核心部通過中に追いついてきた二人組おじさんを加えた総勢六名で、ビクトリーロードを行く。
先頭はオレンジマムートさんだ。私は最後尾でのんびり行く。
三岩山から30分で阿能川岳だった。ついに来た。ようやく来れた。感慨深い。
みんな思い思いに山頂を楽しんでいる。せっかく苦労してここまできたのだから満喫したい。
谷川主脈が正面に見える。蟻の行列になって谷川岳に登る登山者も見える。
なにをするわけでもなく山頂で過ごす。素敵な時間だ。
いつまでもここにいたいが、そうもいかない。帰り道も長いので、そろそろ下山しなければ。
オレンジマムートさんとメガネ君はあっというまに見えなくなった。残りの四人で列になって下っていたのだが、長谷川さんが余裕ありげだったので先に行ってもらった。二人組おじさんと私はのんびり下山だ。
黙々と歩いているうちに核心部を通過し、その後も長い長い道のりを二人組おじさんと抜かしたり追いついたりしながら進んで、最後は三人でフィニッシュした。
「いやあ、たいへんな山でしたねえ」
二人組おじさんと言葉をかわす。
「なぜこの山に登ろうと思ったの?」
二人組おじさんに尋ねられたので正直に答える。
「景鶴山は登った?」
登りました。錫ヶ岳も。
二人組おじさんは群馬の人で群馬百名山に登っているという。これで95座目だそうだ。私もこれで95座だ。
お互い今年中に達成ですねと言うと、おじさんは少々自信なさそうだったが、残りのその山そんなに難しくないから大丈夫ですよ。
お互い、今年中に達成ですね。
2024年3月