おツネの通った道
ツネの泣坂のおツネさんが通った道を歩いてきました。
ヌカザス山から三頭山へ向かう途中のツネ泣坂。
あまりに傾斜が急で泣けるから…ではなく、おツネさんにまつわるちょっと切ない言い伝えから、その名が付けられています。
登山道に「つね泣き峠」の由来を記した看板がありました。
奥多摩情話「つね泣き峠」の由来
奥多摩湖畔の川野に杉田入道平広重という城主が居り、ここの召使い「おつね」と、程近い浄光院の僧「香蘭」とは、いつしか相愛の仲となった。ところが香蘭は山を越えた西原村の山寺「宝珠院」に移籍となり二人は別離の仲となった。おつねはある夜こっそり館を抜け出て恋人香蘭のもとを訪ねようと一人多摩川を渡り、はし沢の谷道を登り瀧坂付近にさしかかった時である。行く手にランランと両の目を輝かせてカッと大きな口をあけた「おいぬ様」が道の真ん中で苦しんでいた。突然のことにおつねは進むことも退くこともできず身の毛もよだつ恐ろしさに思わず立ちすくんだが何を思ったかこわごわながらも近寄っていった。見ればお犬の口の中にどうしたことか獲物の骨がささっていた。おつねが「おいぬ様、私にかみつかなければとってあげよう」というとおいぬは素直に頭を下げた。おつねは不安ながらその骨を取り除いてやるとおいぬ様はうれしげに尾をふって感謝の意を表した。以来、おつねの夜道の送り迎えを務めたという。さて、おつねは峠を越えて久々に香蘭に会い一夜の夢を楽しんだが雇われの身の悲しさ、つきぬ名残を惜しみつつ再び闇の山路を帰るのだった。やがて館のみえる峠にさしかかるころには東の空が白んで明けの鐘が遠く山々に流れていた。よよと泣きくずれるおつね。帰れば主人に叱られるはかない運命に道の端に立つお地蔵様にそっと手を合わせて切ない心にひたすら神の救いを祈るのだった。春がすぎ夏を送り冬の峠道を通うおつねの姿は痛ましく又あわれであった。後世、里人はこの峠を「つね泣き峠」と呼び、おつねの冥福を祈る碑が建った。今なお「香蘭香蘭」とおつねの呼ぶ声が聞こえてくるという。
香蘭が移された宝珠院は、いまでも郷原にあります。槙寄山へ登る途中の村を見下ろす高台にある立派なお寺です。
川野集落の大部分は奥多摩湖に沈んでしまいましたが、高台にわずかに残された集落に浄光院もひっそりとありました。
川野から山を越えた郷原の寺にいる香蘭のもとへ、おツネさんがどのルートで通ったのかはっきりとはわかりません。
奥多摩の山々にまつわる言い伝えを集めた「東京の山」という古い本を見ると、本文にルートの記載はありませんが、添えられた手書きの地図では、ツネ泣き坂から鶴峠へ下り街道筋を郷原まで歩いたように書かれています。
あるいは、お犬様に先導されて、当時は一般的ではなかったであろうピークを越えての稜線歩きで、槙寄山から宝珠院の真裏へ降りる最短ルートを行ったのかもしれません。
いずれにせよ、片道でも相当のロングコースです。とてもとても仕事が終わってからナイトハイクして、夜明けまでにもどってくるようなコースではありません。それに、宝珠院での大休止の時間も必要です。
おツネさんの言い伝えは、お犬様との遭遇についてなぜだか不自然に多くを語っています。それはきっと、お犬様の先導という超自然の力が働かなければ不可能に思える距離を、おツネさんが頻繁に通ったからでしょう。
そこまでして通う根性と執着、おツネさん相当なモノです。
そして若い娘さんにそこまでさせる僧香蘭も、ただモノではありません。