北アルプスの四日間 その4

喧騒の奥穂高岳山頂を離れて、西穂への縦走路をほんの少しだけ歩いた。さすがにちょっとあのカオスな山頂には居続けられなかったので、静かなところでゆっくりと、この三日間を振り返ろうと思ったのだ。

わずか数十メートル山頂を離れただけなのだが、あの騒々しさはここまで届かない。山頂より先へ来る観光客はいない。今回の山旅で初めての静かな山の時間だ。

目の前にはジャンダルムが聳えている。薄っぺらな岩峰の平坦な頂に、人が立っているのが見える。

いいなジャンダルム。せめてあそこまでは行きたかったな。

ん? 行けるんじゃね?

なんだか山頂はすぐそこのように見える。いや、すぐそこだ。小一時間もあれば着けるだろう。ここから見る限りは、そんなに難しそうでもない。多めに見積もり休憩時間を入れても、せいぜい三時間で行って帰ってこれそうだ。時間はじゅうぶん余ってる。なにせまだ朝の7時半だ。

よし、行こう。あそここそ旅の終わりにふさわしい場所である。

そうと決まれば、まずは腹ごしらえだ。ジャンダルムを見つめつつ、昨夜の残りもの弁当を食べ終えると、立ち上がってさらに先へと歩き出した。

難所と言われる馬の背も、最初のうちは平坦で幅も広い。なんだこの程度かと気楽に進むと、急に岩幅が狭まり大きく落ち込んでいく。幅はせいぜい両足分しかない。左右はスッパリ切れ落ちている。さすがにここを下るのは躊躇する。

だが、不思議と恐怖感はなかった。手がかり足がかりは豊富にある。岩は固く安定していて、剥がれることもなさそうだ。

怖い、と感じたとしても、それは当然のことである。しかし、恐怖に囚われ、体が動かなくなってしまうと危険である。必要なのは恐怖心を乗り越えて平然と進める精神力。それは経験の蓄積からしか得られない。確かに、落ちたら間違いなく死ぬが、よく見れば技術的に難しいわけではないとわかる。それを見極める眼力、そして、ひとつひとつを確実にこなせる平常心。3000mの空中でジャングルジムの上り下りができるなら、ここは突破できるはずだ。

おっと危ねえってこともあったが、無事に馬の背を下り終えた。そして目の前にはさらに近づいたジャンダルム。自分とジャンダルムの間には、大きく切れ落ちた鞍部。マジかよ…。

あと少しと思ったのも先ほどまで、ここからさらに下らなければならないようだ。さらに下れば当然、さらに登り返さなくてはならない。この鞍部はずっと見えてなく、ここまで来てようやくこの登り返しを知ることになる。ふぅ。

ため息も出るが、やはりこうでなくちゃ。旅の終わりはそんなに簡単じゃないほうがいい。

ザレた急斜面を慎重に下りていく。登ってくる人がいるので、ガレ石を落とさないよう最大限の注意を払う。ゆっくりゆっくりと下り、鞍部からは最後の登りだ。

なんともなく見えるところにクサリがある。危険箇所を超えたあとでホッとするからか、簡単そうなのでイージーに行くからか、事故の多い場所である。集中力の低下は死につながる。慎重に気を抜かず確実に、目の前のことをひとつづつ順番にこなしていく。

そうしてようやくジャンダルムの基部に着いた。山頂はもうほんとにすぐそこだ。

直登は無理なので裏側へ回る。北穂から見るジャンダルムは特徴的なドーム型をしているが、裏側からはなんの変哲もない小さなコブである。これがあのジャンダルムかい?と疑いたくなるような穏やかな登りを上ると、唐突に山頂に出た。

空が高くて青い。周囲の秀峰がすべて見えている。風は優しく、空気は澄んで清らかだ。あぁ、なんてところなんだろう。

静かな時が流れていく。

縦走路から見たジャンダルムには、いつでも誰かが立っていた。なにをするでもなく、動き回りもせず、ただじっと立っていた。いつ見ても誰かが、いつまでもそこに立っていた。ここに来て初めて、あの立ち続けていた人たちの気持ちがわかる。ここは、ただずっと立っていたい、そんな山頂だ。奥穂に比べれば、ずいぶんと広いし。

ようやく自分も、ジャンダルムの山頂にじっと立つ人になれた。

こんな素晴らしいジャンダルムだが、この3163mの頂は、国内の3000m峰21座には含まれていない。槍ヶ岳から大喰岳、中岳、南岳、北穂高岳、涸沢岳、そして奥穂高岳と、と7つの3000m峰を超えてきた。これらに前穂高岳を加えた8座はすべて、3000m峰21座に含まれている。しかしジャンダルムだけは奥穂の付属峰とされ、付属峰も含めた3000m峰30座の中の、除外された9座のうちのひとつとなっている。

いや、これちょっと納得いかないでしょ。奥穂、北穂、前穂をそれぞれカウントするのはわかる。あれは確かに別々の山だ。涸沢岳も立派な山で、ひとつに数えるのもわかるが、あれが奥穂の付属峰でないなら、ジャンダルムだって独立した一峰でいいのではないか。それに、南岳はまあいいとして、槍から地続きのような大喰岳や、全くピーク感のない中岳ですら独立した3000m峰とされているのに、ジャンダルムが付属峰として弾かれるのは釈然としない。世間がなんと言おうとも、ジャンダルムは国内3000m峰のひとつとして認めたい。

山頂にいる人たちはみないい顔をしている。そりゃそうだろう。ここまで来て、それもこんな天気の日にここまで来て、いい顔にならずにいるのは不可能だ。それぞれが、それぞれの想いを胸に、それぞれ好きな方向を向いて、立ち続けていた。

ここにいるのは単独の男性ばかりだ。奥穂や涸沢ではカラフルで賑やかな登山者グループに埋もれてしまっていたが、ちゃんといたんだ。

北アルプスの喧騒はここまで届かない。

振り向くと西穂まで続く稜線が見えた。意外と近そうだ。そんなに難しそうでもない。大きな登り返しもあるが、下り基調なのでそこまでキツくないだろう。

テント背負ってくればよかったかな。いまからでも十分たどり着けそうだ。

まあ、いまさら無理だけど、そう思えるってのは心が回復した証拠だろう。今回はここまででいい。この続きへ踏み出す時には、再びこの山頂に立つことができる。

気が抜けて集中力を落とさないよう、帰り道はより慎重に。

ちょっぴり怖かった馬の背の下りも、上りでは全く問題なくさらっと登り、相変わらずの奥穂の喧騒に苦笑いし、喘ぐ登山者たちを軽やかに追い越して、穂高岳山荘までもどった。

さあ、涸沢へ帰ろう。涸沢に着いたら生ビールを飲もう。モツ煮も食べよう。

昨日までは北アルプスの毒気に当てられて、そんな気分にならなかったのだが、いまはもう違う。ジャンダルム前とジャンダルム後では、同じ自分でも別の自分なのだ。

昨日も下ったザイテングラートだが、昨日とは打って変わって快調に飛ばしていく。

そうして涸沢小屋に到着し、早々に生ビールを注文した。

カウンターで生ビールを受け取ると、まずはその場で一気飲み。

ごくごくごくごく。

細かな泡に包まれた炭酸の刺激と爽やかなホップの苦みが喉を通り過ぎていく。1杯800円の生ビールを5秒で飲み干してしまった。

う、うまい…。

ビールのお代わりとモツ煮を持って、テラス席に陣取った。

晴れやかな気分だ。

なんとなく涸沢でビールを飲む気になれなかったので徳沢まで下ろうとしていたが、そんな必要もなくなった。もう一日ここでのんびり過ごそう。

ほろ酔い気分で周囲を散策し、ビールを飲んだりおでんを食べたりして涸沢の午後を過ごした。