山では、ただ山のことだけで心をいっぱいにしていたい
気分の上がらない日…というのはあるものです。
他の人がみんな幸せそうに見える、そんな日が。
心の奥の深い深い底に淀む暗い闇に引きずり込まれていきそうな、そんな日が。
そんなとき、あぁ山へ行きたいなぁと思います。
いますぐ山へ行きたい。いますぐ、ひとりで。
山へ行って、ひとの気配を感じない静かな山へひとりで登って、心に風を感じていたい、そんなことを思います。
これって逃げてる?
自分の人生から逃げてる?
うん、そうだと思う。
でも、どうにもならないことに押し潰されそうになったときに、逃げ込む場所があるってのは大切なことだとも思います。
ひとりがさみしいこんな日は、ひとりで山の風に吹かれてこよう。
というわけにもいかないのが、浮世の義理であります。
ひとりがさみしいこんな日は、だれかといっしょだとよけいにむなしくなるものです。根無し草の心の闇は、帰る場所のある人にはとうてい理解してもらえないものだとわかっています。
正直、人と会話をするような気分ではないけれど、だからといって義理を欠いても許してもらえるわけでもありません。
下界のしがらみ、下界の悩み、下界の人間関係、下界の憂鬱、そんなものを山に持ち込む愚かしさ。
山では、ただ山のことだけで心をいっぱいにしていたい。
いまここにある確かな充実感、この先に待ち受けてるものへの期待感、生き延びるために必死になる瞬間、そういったもので自分の内部を満たしたい。全力を尽くさない山は山ではない。時間の浪費につきあっていられるほど、残りの人生は長くない。
まあ、こんなことを言ってるから人から相手にされないのです。わかっています。でも、それでいいとも思っています。たまには弱音を吐きたいときもあるけれど、だからといって逃げたいわけでもありません。
いつもなら全く気にしないのだけど、今年は否応無しに意識させられてしまいました。自分の境遇を。
比較するのは不幸の始まりなので、自分は自分の歩く道を歩いていくしかありません。そうする以外の選択肢はありません。わかっています。
この先の10年間はどんな人生になるのだろう。まちがいなく、ここまでの10年間とは全く違ったものになるはずです。
なにが待ち受けているのかわからない不確かな未来に期待して、今日というちょっとだけ特別な一日を過ごそうと思います。